すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます
キリスト教会の看板などには、この言葉がよく書かれている。
日常生活に疲れた方をねぎらうような言葉だけど。
う~ん、でもさ。
そこに行くじゃん?行ったときはお客さま扱いだけれども、いずれは出席、集金、作業、という、日常生活とは違う、宗教生活の重荷を負わせられるじゃん?
と思わざるをえない。
まあ、世の中には、宗教生活に逃避したい方もいるからね。
それがきっかけで、キリストに出会えれば、それはそれでよし。
この御言葉を文章として見ると、休ませてあげます、というのが、ただの休憩、休息、ではない、ということがわかります。
@マタイ伝11:28-29
【新改訳2017】
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
【恊共訳】
11:28 すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。
くびきを負う、ということは、二頭の牛がくびきで一体となって畑を耕すように、キリストと一体となって働くこと。
そして、そのくびきは「わたしのくびき」つまり「キリストのくびき」であって、僕らの「くびき」ではない。
つまり、主体はキリスト。
その主体であるキリストから、学ぶ。
学ぶことで魂に安らぎを得る、ということは、学ばなければ安らぎはない、ということ。
で、この「くびき」は、前の10章では「十字架」として、教えられています。
@マタイ伝10:38-39
【新改訳2017】
10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
【恊共訳】
10:38 また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。
10:39 自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。
*いのち、命
原語は、魂。
「自分の十字架」は、そのまま「キリストのくびき」です。
聖書の言葉を事実とする生き方は、これまでの魂の在り方を否定します。
わたしのくびきを負って安きを得よ、と言われると、親しみやすく、受け取りやすい。
十字架を負って従え、と言われると、厳しく感じ、回避したくなる。
クリスチャンを自称していても、そうでしょ?
でもね。
キリスト者にとって、十字架は、解放です。
ある人はこう言いました、十字架は甘い。
もちろん、痛みはありますが。
そこで自分の魂、その執着を捨てるときに、やすらぎが得られます。