聖書は、神が主役であり、神が中心である。
へブル12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(新改訳)
と書かれているのは、日々の生活、人生の選択のためだけではない。
聖書を読むときにも、同じことである。
人は意識しないと、自己中心だ。
「なぜ神がいるなら戦争があり、貧困があり、病があるのか?」
という問いかけをされることがある。
答えは「人間がいるから」。
そもそも、戦争がなく、貧困が無く、病がない、という人間に都合のいい条件を並べて、神の存在を問いただすのがおかしい。
それは人が、自分に都合の良い「神のあるべき姿」を、好き勝手に押し付けているだけに過ぎない。
それが「罪の奴隷」である、人の姿である。
キリスト者となり、アダムに属する「罪の奴隷」から、イエスに属する新しい被造物「義の奴隷」とされても、人中心の感覚、価値観、物の見方は変わらない。「罪の奴隷」から「義の奴隷」へと。「いのち」は変えられても、この地上で生きている肉体は、変わっていない。
故に、「罪の奴隷」であったときの、記憶、生活様式、嗜好、などが残っている。パウロがローマ書で語る「肉」である。
言い換えるならば、霊が死んだような状態で、魂と肉体だけで生きていた「罪の奴隷」の生き方を引きずっているのだ。
キリスト者となっても、霊が弱く、ほとんど機能せずに、魂と肉体だけで生きている。そのために、自己中心で生きている。人間中心で生きている。
コロサイ
3:9 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。【新共同訳】
と書かれているのは、古い人(罪の奴隷)を、行い(生活様式、習慣)と一緒に放棄し、新しい人(義の奴隷)として、毎日を新しいキリスト者として生きることを提示している。
人は人間中心でいるから、意識せずに聖書を読むと、人の側から聖書を読んでしまう。そうすると、ただの善悪の概念、道徳、人生訓、となる。さらにもっと自己中心だと、成功の法則だの、あなたが輝くだの、違う方向に走っていく。
聖書は、神中心である。つまりはイエス中心である。
聖書は、人の側からでなく、神の側から読まなければいけない
テキストとして、詩篇1編1~3節を読むことにしよう。
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
(口語訳)
人の側から読むとこうなる。
1節から
「悪しき者のはかりごとに歩まず」は、思いの領域で罪を犯すこと。実際に行動はしないが、罪を思うこと。考えること。
「罪びとの道に立たず」は、実際にしてしまう、してしまった、行いの罪。
「あざける者の座にすわらぬ」は、他人への批判、また誹謗中傷。
これらを避けなさい。
2節から
聖書を喜んで読み、御言葉を繰り返し思い返す。
3節から
御言葉によって自分が変えられる。いずれ時が来たときに、実(成功、祝福、解決)が来る。
というメッセージとなる。間違ってはいない。たしかに、そうともいえる。だが、中心は自分である。
神中心で読んでみよう。
1節から
「悪しき者のはかりごとに歩まず」は、人の自己欺瞞。御言葉に従わない自分を正当化しようと、理由付けする思考。
「罪びとの道に立たず」は、神の存在を否定すること。
「なぜ神がいるなら」もしくは「そんな神はいらない」という態度。
「あざける者の座にすわらぬ」は、神ご自身をあざけること。
「神がいるならばここに姿をあらわせ」また「神がいるならこうしてみせろ」という、神への挑戦。
みっつの段階があるが、これは「罪の奴隷」の状態である。
「さいわい」というのは、この「罪の奴隷」から「義の奴隷」に、つくりかえられたキリスト者を示している。
この肉体には「罪の奴隷」だったころの痕跡があり、御言葉に従いたくない「肉」のパターンで、自己欺瞞に陥ることもあるだろう。だが、キリスト者の特権は、イエスの名によって祈れることにある。
「従えない私を憐れんでください」
「私を自己欺瞞から救い出してください」
主は、この祈りを聞いて応えてくださる。
使徒行伝2章を見てみよう。
ゲッセマネの園で「目を覚まして祈っていろ」と言われた弟子たちは、眠りこけて祈れなかった。
だが、ここで弟子たちは、熱心に祈っている。イエスの昇天後、弟子たちは祈れるように変えられている。祈れるようになったのには、いろいろな理由がある。
だが、どうであれ主が、御言葉に従いたいと願うものには、人の思いや置かれる状況を用いて、(時には痛みを伴うが)御言葉に従えるようにしてくださるのだ。それは、人の行い、努力によらない。神が成される、神の御業である。
2節から
キリスト者としての日常を教えている。
喜ぼうとして、喜べるものではない。喜びを演じる必要はない、演じるならばそれは偽りだ。
主のおきて、御言葉は喜びなのだ。読んで面白く、うちに「いのち」の躍動し、喜びが沸いてくるのだ。
確かに、「肉」にとっては嬉しくない、聞きたくない、知りたくない、そんな御言葉がある。
だが、キリスト者は肉体にあっても、「肉」に生きる存在ではない。イエスのいのちを体験し、イエスとともに歩むために、日々自分の十字架を負っていきるのだ。
それは、嬉しくない、聞きたくない、知りたくない、そんな御言葉や状況にあったとき、「肉」を十字架につけて死なせるためである。そこには、実際に痛みがあり、苦しみがある。だがその後には「復活」その「いのち」がある。
マタイ10:39
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。【新共同訳】
ここの「命」、原意は「魂」である。
自分の魂を得る=「私」の置き所を「肉」に留めようとする、ことで一時の安堵を得るが、また同じパターンの苦しみに陥る。
わたしのために命を失う=「私」の置き所を「霊」に求め、「肉」を死なせる。
かえってそれを得る=復活のいのちにあずかり、「霊」「魂」「肉体」において健全な「私」として生きる恵みにあずかる。
注意点は、自分の宗教観、義務感によって、御言葉の剣で「切腹」しないことだ。そこでは死に切れず苦しむだけである。
3節から
そうしていると、御言葉によって自分が変えられる。いずれ時が来たときに、実(成功、祝福、解決)が来る。
これは「人中心」で書いたままである。だが、キリスト者の焦点は、自分自身や自分の置かれた環境や状況には無い。
へブル12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
さて、次からが本題である。
詩 1
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。【口語訳】
ここに書かれている人は、誰だろう。
私だろうか、あなただろうか、あの人だろうか。
ここに書かれているのは、イエスである。
もう一度、ゆっくり読み返してみよう。
詩篇1編1~3節
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。【新改訳改訂第3版】
これは書かれているとおりに成就した。
2000年前、地中海の小国家イスラエルで、田舎の宗教家(ラビ)の大工が死んだ。
この事実が、世界中に伝えられ、東の果ての島国でも伝えられ、信じる者に、救いといのちをもたらしているのだ。
これは人中心に考えるならば、不可解なことである。
だが、十字架の死。このことを通して、イエスは栄えている。
まさに「何をしても栄える」のだ。
イエスは言われた。
ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(新共同訳)
私たちは枝である。
そしてこの枝に、イエスのいのちによって、葉が茂り、実をつけることになる。
詩篇1編3節
「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」
と書かれているとおり、私たちはすでに「永遠」に生きており、枯れることはないのだ。
すでに「罪の奴隷」から救われ、新しい被造物「義の奴隷」とされている。イエスにつながり、イエスのいのちで生きること。この特権が与えられている。なんと感謝なことだろうか。
イザヤ 53:11
彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った【新共同訳】
と書かれているように、私たちキリスト者、すなわち「教会」を、イエスは喜び、満足されているのだ。
だが神の祝福は、イエスの栄えはこれで終わらない。
そしてやがて時が来ると、黙示録21章にある「新天新地」があらわれ、新しいエルサレムが、天から下ってくる。
黙示録
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」【新共同訳】
これが究極の、実である。
私たちキリスト者、すなわち教会の希望はここである。神と人が共に住む、新エルサレムである。
ここに望みを置くとき、地上のものはかすんでいく。
ここに希望を置かない歩み、それは人中心の歩みなのだ。
神中心に生きるとき、この究極の実から、焦点を外してはならない。神と共に人が住む。これこそが、神の喜びであり、イエスの喜びであり、人の創造された目的。
地上の成功。良好な人間関係。穏やかな生活。それらはよいものだ。
だが、所詮は前味。所詮は予告。所詮は消え行くものだ。