鳴鳩雑記

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中心はなにか 2009・04

聖書は、神が主役であり、神が中心である。 


つまりは、イエスが主役であり、イエスが中心である。 

 

へブル12:2 
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(新改訳) 

 

と書かれているのは、日々の生活、人生の選択のためだけではない。

聖書を読むときにも、同じことである。 

 


人は意識しないと、自己中心だ。 

「なぜ神がいるなら戦争があり、貧困があり、病があるのか?」 

という問いかけをされることがある。 

答えは「人間がいるから」。 

そもそも、戦争がなく、貧困が無く、病がない、という人間に都合のいい条件を並べて、神の存在を問いただすのがおかしい。 

それは人が、自分に都合の良い「神のあるべき姿」を、好き勝手に押し付けているだけに過ぎない。 

それが「罪の奴隷」である、人の姿である。 

 


キリスト者となり、アダムに属する「罪の奴隷」から、イエスに属する新しい被造物「義の奴隷」とされても、人中心の感覚、価値観、物の見方は変わらない。「罪の奴隷」から「義の奴隷」へと。「いのち」は変えられても、この地上で生きている肉体は、変わっていない。 

故に、「罪の奴隷」であったときの、記憶、生活様式、嗜好、などが残っている。パウロがローマ書で語る「肉」である。 

 

言い換えるならば、霊が死んだような状態で、魂と肉体だけで生きていた「罪の奴隷」の生き方を引きずっているのだ。 

キリスト者となっても、霊が弱く、ほとんど機能せずに、魂と肉体だけで生きている。そのために、自己中心で生きている。人間中心で生きている。 


コロサイ 
3:9 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 
3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。【新共同訳】 


と書かれているのは、古い人(罪の奴隷)を、行い(生活様式、習慣)と一緒に放棄し、新しい人(義の奴隷)として、毎日を新しいキリスト者として生きることを提示している。 

 

人は人間中心でいるから、意識せずに聖書を読むと、人の側から聖書を読んでしまう。そうすると、ただの善悪の概念、道徳、人生訓、となる。さらにもっと自己中心だと、成功の法則だの、あなたが輝くだの、違う方向に走っていく。 


聖書は、神中心である。つまりはイエス中心である。 


聖書は、人の側からでなく、神の側から読まなければいけない

 

テキストとして、詩篇1編1~3節を読むことにしよう。 


1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。 
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 
(口語訳) 


人の側から読むとこうなる。 


1節から 
「悪しき者のはかりごとに歩まず」は、思いの領域で罪を犯すこと。実際に行動はしないが、罪を思うこと。考えること。 

「罪びとの道に立たず」は、実際にしてしまう、してしまった、行いの罪。 

「あざける者の座にすわらぬ」は、他人への批判、また誹謗中傷。 

これらを避けなさい。 

 

2節から 
聖書を喜んで読み、御言葉を繰り返し思い返す。 

 

3節から 
御言葉によって自分が変えられる。いずれ時が来たときに、実(成功、祝福、解決)が来る。 


というメッセージとなる。間違ってはいない。たしかに、そうともいえる。だが、中心は自分である。 


神中心で読んでみよう。 


1節から 
「悪しき者のはかりごとに歩まず」は、人の自己欺瞞。御言葉に従わない自分を正当化しようと、理由付けする思考。 

 

「罪びとの道に立たず」は、神の存在を否定すること。 
「なぜ神がいるなら」もしくは「そんな神はいらない」という態度。 

 

「あざける者の座にすわらぬ」は、神ご自身をあざけること。 

「神がいるならばここに姿をあらわせ」また「神がいるならこうしてみせろ」という、神への挑戦。 

 

みっつの段階があるが、これは「罪の奴隷」の状態である。 

 

「さいわい」というのは、この「罪の奴隷」から「義の奴隷」に、つくりかえられたキリスト者を示している。 

 

この肉体には「罪の奴隷」だったころの痕跡があり、御言葉に従いたくない「肉」のパターンで、自己欺瞞に陥ることもあるだろう。だが、キリスト者の特権は、イエスの名によって祈れることにある。 

 

「従えない私を憐れんでください」 

「私を自己欺瞞から救い出してください」 

 

主は、この祈りを聞いて応えてくださる。 

 

使徒行伝2章を見てみよう。

ゲッセマネの園で「目を覚まして祈っていろ」と言われた弟子たちは、眠りこけて祈れなかった。

だが、ここで弟子たちは、熱心に祈っている。イエスの昇天後、弟子たちは祈れるように変えられている。祈れるようになったのには、いろいろな理由がある。

だが、どうであれ主が、御言葉に従いたいと願うものには、人の思いや置かれる状況を用いて、(時には痛みを伴うが)御言葉に従えるようにしてくださるのだ。それは、人の行い、努力によらない。神が成される、神の御業である。 


2節から 
キリスト者としての日常を教えている。 

喜ぼうとして、喜べるものではない。喜びを演じる必要はない、演じるならばそれは偽りだ。 

 

主のおきて、御言葉は喜びなのだ。読んで面白く、うちに「いのち」の躍動し、喜びが沸いてくるのだ。

確かに、「肉」にとっては嬉しくない、聞きたくない、知りたくない、そんな御言葉がある。

だが、キリスト者は肉体にあっても、「肉」に生きる存在ではない。イエスのいのちを体験し、イエスとともに歩むために、日々自分の十字架を負っていきるのだ。

それは、嬉しくない、聞きたくない、知りたくない、そんな御言葉や状況にあったとき、「肉」を十字架につけて死なせるためである。そこには、実際に痛みがあり、苦しみがある。だがその後には「復活」その「いのち」がある。 

 


マタイ10:39 
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。【新共同訳】 


ここの「命」、原意は「魂」である。 

自分の魂を得る=「私」の置き所を「肉」に留めようとする、ことで一時の安堵を得るが、また同じパターンの苦しみに陥る。 

わたしのために命を失う=「私」の置き所を「霊」に求め、「肉」を死なせる。 

かえってそれを得る=復活のいのちにあずかり、「霊」「魂」「肉体」において健全な「私」として生きる恵みにあずかる。 

注意点は、自分の宗教観、義務感によって、御言葉の剣で「切腹」しないことだ。そこでは死に切れず苦しむだけである。 


3節から 
そうしていると、御言葉によって自分が変えられる。いずれ時が来たときに、実(成功、祝福、解決)が来る。 

これは「人中心」で書いたままである。だが、キリスト者の焦点は、自分自身や自分の置かれた環境や状況には無い。 


へブル12:2 
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 


さて、次からが本題である。

 

詩 1 
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。 
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。【口語訳】 



ここに書かれている人は、誰だろう。 

私だろうか、あなただろうか、あの人だろうか。 

 


ここに書かれているのは、イエスである。 

この詩篇は、イエスについて書かれている。 

もう一度、ゆっくり読み返してみよう。 


詩篇1編1~3節 

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。 

まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。【新改訳改訂第3版】 

 

これは書かれているとおりに成就した。 

2000年前、地中海の小国家イスラエルで、田舎の宗教家(ラビ)の大工が死んだ。 

この事実が、世界中に伝えられ、東の果ての島国でも伝えられ、信じる者に、救いといのちをもたらしているのだ。 


これは人中心に考えるならば、不可解なことである。 
だが、十字架の死。このことを通して、イエスは栄えている。 
まさに「何をしても栄える」のだ。 


エスは言われた。 

ヨハネ 
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(新共同訳) 


私たちは枝である。 


そしてこの枝に、イエスのいのちによって、葉が茂り、実をつけることになる。 

詩篇1編3節 
「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」 

と書かれているとおり、私たちはすでに「永遠」に生きており、枯れることはないのだ。 


すでに「罪の奴隷」から救われ、新しい被造物「義の奴隷」とされている。イエスにつながり、イエスのいのちで生きること。この特権が与えられている。なんと感謝なことだろうか。 

 

イザヤ 53:11 
彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った【新共同訳】 

と書かれているように、私たちキリスト者、すなわち「教会」を、イエスは喜び、満足されているのだ。 

 

だが神の祝福は、イエスの栄えはこれで終わらない。 
そしてやがて時が来ると、黙示録21章にある「新天新地」があらわれ、新しいエルサレムが、天から下ってくる。 

 

黙示録 
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」【新共同訳】 


これが究極の、実である。 


私たちキリスト者、すなわち教会の希望はここである。神と人が共に住む、新エルサレムである。 


ここに望みを置くとき、地上のものはかすんでいく。 
ここに希望を置かない歩み、それは人中心の歩みなのだ。 


神中心に生きるとき、この究極の実から、焦点を外してはならない。神と共に人が住む。これこそが、神の喜びであり、イエスの喜びであり、人の創造された目的。 


地上の成功。良好な人間関係。穏やかな生活。それらはよいものだ。 
だが、所詮は前味。所詮は予告。所詮は消え行くものだ。