鳴鳩雑記

https://into-deep-flow.hateblo.jp/

神の似姿になること

久しぶりに覗いた「ハーベストウォッチ」、記事が更新されていました。

 

 

この記事にあるように、「私はイエスです」という表現は正しくありません。

「イエス」という名前は人間としての個人名なので、フランシス・チャン氏は「ナザレのイエス」ではありませんし、決してありえません。

ですので、「私はイエスです」は適切ではありません。

 

ただ、「私はキリストです」という表現であれば、必ずしも間違いではありません。

ガラテヤ人への手紙2:20を「事実」とするのであれば、間違いではありません。(もちろん「再臨のキリスト」を自称する輩は論外ですので…略)

 

新約聖書・ガラテヤ2:20【新改訳2017】
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、*神の御子に対する信仰によるのです。

 

*「神の御子の信仰」とも訳せる

 

実際のところ、聖書はヤバイ本で、トンデモ話が満載です。

そしてそれを「事実」とするのが、キリスト者です。

このガラテヤ書の御言葉を事実とするのであれば、キリスト者は「私はキリストです」という認識を持っているのが、基本、標準、常態、です。

 

また、記事では「キリストとひとつ」という表現を「神性宣言にほかなりません」と指摘されていますが、そうであればヨハネ伝14:20は、どう理解すればよいのでしょう?

 

新約聖書ヨハネ伝14:20【新改訳2017】

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

これって「ひとつ」ではないのでしょうか?

 

また、ヨハネ伝15:5では

 

新約聖書ヨハネ伝15:5【新改訳2017】
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 

「ぶどうの木と枝」は、「ひとつ」ではないのでしょうかね?

「ひとつ」でなければ、その枝は焼かれるとの旨が、後節にありますが。

 

使徒行伝22:7-8【新改訳2017】
私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』
 私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』

 

サウロは、ナザレのイエスを迫害したことはありません。出会ったことはないのです。

サウロは、教会(エクレシア)を迫害したのですが、ナザレのイエスはそれを「わたし」と仰せられました。

「ひとつ」でなければ、「わたし」とは言わないのでは?

 

新約聖書Ⅰコリント人への手紙12:12【新改訳2017】
ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

 

「キリストもそれと同様」ということで、やはり「ひとつ」なのでは?

 

 

この記事にある、フランシス・チャン氏の言葉は確かに不適当です。

私は、フランシス・チャン氏を全く知らないので、擁護するつもりはありません。

ですが、チャン氏が言わんとしていることは、記事の指摘するような「神性宣言」ではないように思います。

 

ちなみに。

私は、ハーベストタイムミニストリーの中川氏には、敬意を持っています。

配信メッセからは良い学びをたくさんいただきました。

毎月の応援もさせていただいています。

またハーベスト・ウォッチの指摘するように、いわゆる「新使徒運動」は肯定しません。

ですが、この記事の内容は「新使徒運動」と同様に、いかがなものかと思います。

 

こんな事を書いていると、私も「異端的」とみなされるのでしょうか。

まぁ、そう思われてもまったくかまいません。

 

前置きが長くなりました。

ここからが、本題です。

 

創世記1:26において創造主なる神(ヤハウェ・エロヒーム)は、人を「神の似姿」となるように「神の形」に造ろう、と仰せられました。

そして、1:27で「神の形」に創造されたと2回、記述されています。

2回の記述は、強調です。

そして、この時点では「神の似姿」に創造された、とは記述されていません。

 

人は、神の言葉に生きることで「神の似姿」になります。

始祖人アダムには「善悪の知識の木の実は食べない」というのが、神の言葉です。

それさえ違反しなければ、彼は「似姿」になっていったのです。

(現代人は、神の言葉=イエス・キリスト、そのお方にあって生きることで、神の似姿になります)

 

そしてエバは蛇に誘惑された際、「神のようになる」という甘言に欺かれますが、それは人の創造の目的として、「神の似姿」になることが本来的にあったからです。

神の言葉に生きることで「神の似姿」になるのが、創造本来の目的。

だがしかし、神の言葉に背くことでそれを成そうとしたことが、過ちになりました。

 

エバエバなりに、「神の似姿」になりたいと考えていたのです。

そしてそれは、人の創造の目的から、それたものではありません。

ただ、残念ながら、エバが持っていた言葉は「神の言葉そのもの」ではなく、「触れてもダメ」という付け加えと、「死ぬといけない」という曖昧さのある、自分の考え=人の言葉、でした。

 

余談ながら、これって、現代の「教会」にも、そのまま適用されるでしょう。

「教会=エクレシア」は、キリストの花嫁、妻、であり、女です。

もし「教会」が、「神の言葉」で生きるのではなく、付け加えと曖昧さを含む「人の言葉」で生きるなら、それは「的を外している」ことになります。

その結実が、黙示録3章の「ラオデキヤ」となるでしょう。

また、始祖人アダムが正確に「神の言葉」を伝えていたかどうか。

実のところ、それは大きな責任です。

同様に、御言葉を取り扱い、伝える者の責任は、軽いものではありません。

聖書の創世記は「物語」で黙示録は「文学」、そう伝えることは恐ろしいことです。

神はご自身を「アルファでありオメガである」と言われるのですが、それを暗に否定している言わざるをえません…。

また同時に、聖書の内容を伝えられる者、受け止める者も、注意して、真摯に、受け止めることが、責任です。

「人の言葉」が正当化されていくとき、そこには宗教が生まれ、やがてそれは「ラオデキヤ」を経て、キリストの花嫁ではない、黙示録の「大バビロン」になっていくでしょう。

 

新約に生きるキリスト者は、聖書を伝えるもの、受け止めるもの、そのいずれもが、キリストご自身との個人的な関係により「神の言葉に生きる」ことと、聖書を理解して「神の言葉に生きる」ことにより、内側にキリストが形造られること、キリストの身丈まで成長することが、期待されています。

 

 

新約聖書ガラテヤ4:19【新改訳2017】
私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

 

新約聖書エペソ4:13【新改訳2017】
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

 

それは「神の似姿」になることであり、創造の目的にふさわしいのです。