鳴鳩雑記

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魂の潜在力 ウォッチマン・ニー

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全体概要

本書の核心的なメッセージは、「人間(アダム)の堕落によって肉の中に封印された『たましいの潜在力(サイキック・フォース)』と、聖霊によって新生した『霊(スピリット)の力』を明確に識別し、前者を退けて後者に従って歩むべきである」という点にあります。

終わりの時代において、サタンは人間の肉の殻を打ち破り、この「たましいの潜在力」を解き放つことで、偽りの奇跡や宗教的・精神的な現象を引き起こし、神の選民をも惑わそうとしています。クリスチャンは自らの自然な能力や感情・心理的力に頼ることをやめ、主の十字架において自らの「たましいの命」を死に渡すことで、聖霊の真の命と力を結実させなければなりません。

要約

第1章:魂の潜在力

  • 人間の三元構造(霊・たましい・からだ): 人間は神と交わる「霊」、自己意識や人格である「たましい」、世界と交わる「からだ」から構成されています。

  • アダム本来の驚異的な能力: 創世記において地を支配し動物に命名したアダムは、人間の想像を絶する脳力・管理能力・身体能力を持っていました。これらの力は彼の「生きたたましい」に備わっていた自然な能力でした。

  • 堕落と潜在力(Latent Power): 堕落によりアダムの能力は失われたのではなく、肉(Flesh)の中に封印・不活性化されました。これが人類の「たましいの潜在力」です。

  • サタンの工作と各種の宗教・科学: 異教の修行(仏教、道教、ヒンドゥー教)、マインドサイエンス(キリスト科学)、心理学・超心理学(催眠術、透視、テレパシーなど)はすべて、肉の束縛を弱めて「たましいの潜在力」を解放する同一の法則に基づいています。サタンはこの力を利用して終わりの時代に人間を支配しようとしています。

第2章:クリスチャンとサイキック・フォース(精神的力)

  • サタンの目的と4つの利点: サタンは人間のたましいの力を開放・支配することで、①「神のようになる」という偽りの約束の実現、②神の奇跡の価値の切り下げ、③聖霊の働きの偽造(偽りの悔い改めやリバイバル)、④終わりの時代における神への最終抵抗(反キリストの擁立)を図っています。

  • 神とサタンの働きの相違:

    • 神(聖霊)の働き: 人間の「霊」を通して行われ、内住によって実を結び、上に臨むことで証しの力を与えます。

    • サタンの働き: 人間の「たましい」および「肉」を通して行われ、人間の心理的・生理的力を操作します。

  • 生活や教会における「たましいの力」の危険性:

    • 間違った祈り: 神ではなく特定の人物に向けて意識や願望を集中させる祈りは、一種の催眠術・サイキック攻撃となり、相手に害を与えます。

    • 感情的・心理的な操作: 人数の多さ、音楽(パイプオルガンや歌唱)、興奮させる物語によって雰囲気を加熱する説教やリバイバルは、一時的な「たましいの力」の励起(霊的モルヒネ)にすぎず、真の生命の結実に繋がりません。

第3章:スピリット・フォース(霊の力) vs サイキック・フォース(精神的力)

  • 終わりの時代の偽りのしるし: 黙示録やテサロニケ人への手紙が預言するように、反キリストの到来に先立ち、たましいの力による偽りの奇跡やしるしが激増します。

  • 非奇跡的な領域における「たましいの力」の例:

    • 相手の思考を自然な洞察力で読み取ろうとする伝道

    • 雰囲気に左右される説教

    • 感情を刺激するためだけの歌唱

    • 自身の知性や論理のみに頼る聖書解釈

    • 自制を失わせる「聖なる笑い」や、心を空白にして得る幻想・夢

  • 「たましい」と「霊」の決定的な違い(1コリント15:45):

    • たましい(Soul): それ自体は生きている(Living)が、他者を生かす( make others live)ことはできない。

    • 霊(Spirit): それ自体が生きているだけでなく、他者に命を与える(Life-giving)ことができる。

  • 自らを死に渡すこと(一粒の麦の原則): ヨハネ12:24–25に基づき、信者が自らの「たましいの命(自然な才能、雄弁さ、知恵、力)」を愛して頼ることをやめ、一粒の麦のように地に落ちて死ぬとき、初めて聖霊を通じた復活の命が湧き出で、真の永続的な実を結ぶことができます。主イエスご自身も「子は自分からは何も行うことができない(ヨハネ5:19)」という依存の姿勢を終生貫かれました。

 

 

霊の潜在能力と魂の解放

 

第1章:魂の潜在力

「地上の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がいないからである。その商品は、金、銀、宝石、真珠、亜麻布、紫布、絹、赤布、各種の香り高い木、各種の象牙の製品、高価な木材、銅、鉄、大理石の各種の器、またシナモン、香料、香、没薬、乳香、酒、油、麦粉、小麦、家畜、羊、馬、車、奴隷、すなわち人間のからだとたましいである。」(黙示録 18:11–13)

ここで注目すべきは、この聖句における商品のリストが「金と銀」で始まり、最後が「人間のたましい」で終わっている点です。金、銀、馬、車はすべて、物々交換さえ可能な自然のコモディティ(商品)です。奴隷であっても売買することは可能ですが、これは「人間のからだ」の売買にほかなれません。さらに進んで、それは「人間のたましい」を商品として交換することでもあるのです。

それゆえ、次のように書かれています。 「『最初の人間アダムは生きた者となった』と書いてある最後のアダムは、命を与える霊となった。しかし、霊的なものが最初ではなく、自然なものが最初であり、その後に霊的なものが来るのです。」(1コリント 15:45–46)

「そして、神である主は、土地のちりであの人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人となり、生きた者となった。」(創世記 2:7)

ここ2年ほどの間、私はこれからお話しするようなメッセージを伝える必要性を強く感じてきました。これは入り組んだ、かつ深遠なメッセージです。語る者にとっても、聞く者にとっても、容易に理解できるものではありません。このような理由から、私はこのメッセージを著作『霊の人(The Spiritual Man)』の第3部に挿入しませんでした。しかし、さまざまな本や雑誌を読み、この世の人々と一定の関わりを持つにつれて、私たちが知る特権を与えられている真理がいかに貴重であるかを常に感じてきました。教会とこの世の現在の状況や傾向に鑑み、私たちは与えられたものを分かち合うよう強いられています。そうでなければ、私たちは灯火を器の下に隠してしまうことになります。

今日、私たちが考察するためにこのメッセージの中で言及したいのは、霊的戦いと、この時代の終わりとの関係についてです。

さて、『霊の人』を読んでいない方々のために、「霊・たましい・からだの三元構造」について簡単に触れておきましょう。

霊・たましい・からだの三元構造

「そして、神である主は、土地のちりであの人を形造り…」(創世記 2:7)— これは人間の「からだ」を指しています。「…その鼻にいのちの息を吹き込まれた」— これは、神がどのようにして人に「霊」を与えられたかを描写しています。それはアダムの霊でした。すなわち、人間のからだは地のちりから形造られ、人間の霊は神によって与えられたのです。

そして、「人となり、生きた者となった」— いのちの息がその鼻に入った後、人は「生きた者(生きたたましい)」となりました。霊、たましい、からだは3つの異なる実体です。 「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(1テサロニケ 5:23) 霊は神から与えられたものであり、たましいは生きた者(たましい)であり、からだは神によって形造られたものです。

一般的な理解によれば、たましいとは私たちの「人格」です。霊とからだが結び合わされたとき、人は生きた者となりました。天使の特徴は「霊」であり、獣のような下等動物の特徴は「肉」です。私たち人間には霊とからだの両方がありますが、私たちの特徴は霊でもからだでもなく、「たましい」です。私たちには生きたたましいがあります。それゆえ聖書は、人間のことを「たましい」と呼びます。

例えば、ヤコブが家族と一緒にエジプトに下ったとき、聖書は次のように伝えています。「エジプトに来たヤコブの家族の者は、みな合わせて七十人であった。」(創世記 46:27) また、ペンテコステの日にペテロの言葉を受け入れた者たちがバプテスマを受け、その日におよそ三千人の「たましい」が加えられた、とあります(使徒 2:41)。 したがって、「たましい」とは私たちの人格を表しており、私たちを人間たらしめているものを指しています。

霊、たましい、からだのさまざまな機能とは何でしょうか。これらについてはすでに『霊の人』の第1部で説明しましたが、ある日、本棚でアンドリュー・マレー(Andrew Murray)の著作の巻を見つけ、その付録の中に霊・たましい・からだについての解説があるのを見出したときは、非常に嬉しく思いました。それは私たちの解釈と非常によく似ていたのです。以下は、その付録からの引用です。

「人間の創造の歴史において、私たちは次のように読む。『主なる神は土地のちりから人を形造られた。』こうして彼のからだが作られた。そして『その鼻にいのちの息、すなわちいのちの霊を吹き込まれた。』こうして彼の霊は神から出た。『そして人は生きた者となった。』からだを活気づける霊によって、人は生きた者となり、自己意識を持つ生きた人格となった。

たましいは、からだと霊の出会いの場、すなわち結合点であった。からだを通して、生きた者である人間は感覚の世界である外的世界に関係し、それに影響を与えたり影響を受けたりすることができた。霊を通して、彼は霊的世界と、自分がその源である神の霊に関係し、そのいのちと力の受け手および奉仕者となることができた。

このように二つの世界の間に中間に立ち、両方に属しているたましいには、自分自身を決定する力、すなわち、自分が囲まれており関係している対象を選んだり拒んだりする力があった。人間の本性のこれら3つの部分の構成において、神と彼を結びつける『霊』が最も高く、彼を感覚的・動物的なものと結びつける『からだ』が最も低かった。その中間に立ったのが『たましい』である。たましいは双方の性質にあずかり、それらを結合する絆であり、それを通して互いに働きかけることができた。

中心的な力としてのたましいの働きは、それらの関係を維持し、最低のものであるからだを霊に服従させ、より高いものである霊を通して神の霊から、その完成のために待ち望んでいるものを受け取り、それをさらにからだに伝えて、からだが霊の完成にあずかり、霊のからだとなるようにすることであった。」

「霊」とは何でしょうか。私たちに神を意識させ、神と私たちを結びつけるものが霊です。 「たましい」とは何でしょうか。それは私たちを自分自身と結びつけ、自己意識を与えてくれるものです。 「からだ」とは何でしょうか。それは私たちをこの世と結びつけます。

C・I・スコフィールド(C. I. Scofield)はそのリファレンス・バイブルの中で、霊は「神の意識」を与え、たましいは「自己意識」を与え、からだは「世界の意識」を与えると説明しています。 馬や牛は霊を持たないため神を意識せず、自分自身の存在を意識しているだけです。からだは私たちが世界を感じるようにさせます。例えば、世界の物事を見たり、暑さや寒さを感じたりすることなどです。

アダムの権威と身体能力

上記で述べたことは、霊・たましい・からだの機能に関するものです。ここから、非常に重要な問題へと移りましょう。 多くの人は、この霊・たましい・からだの問題を霊的生活にのみ関連するものと捉えています。しかし私たちは、それが霊的な働きや戦いにも深く関係していることを認識する必要があります。

私たちは自分たちを、堕落する前のアダムとほとんど対等であるかのように比較しがちです。アダムと同じ人間なのだから、私たちと彼の間にそれほど大きな違いはないと思い込んでいます。私たちができないことは、アダムにもできなかったはずだと考えるのです。しかし私たちは、次の2つの事柄が見えていません。

  1. 一方で私たちがアダムにできなかったことをできないのは事実であるということ。

  2. しかし他方で、私たちができないことをアダムはできたということ。

「神はご自身のかたちとして人を創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福し、神は彼らに言われた。『生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を治めよ。』」(創世記 1:27–28)

「地を治めよ」と神は言われます。皆さん、地がいかに広大であるか考えたことがあるでしょうか。 ある主人が使用人に2つの家の管理を頼むとしましょう。主人は、後者の世話能力を基準にしてその任命を行います。一人の使用人が、特定の通りにあるすべての家を同時に扱うことなどできません。自分の能力を超えたことはできないからです。厳しい主人であれば、使用人に義務以上のことを少しは要求するかもしれませんが、決して能力を超えるようなことを引き受けるよう要求することはありません。

では、神がアダムに、自分の無能力なことをするよう求めただろうかと言えば、決してそうではありません。したがって、もしアダムが地を治める能力を持っていたのであれば、彼の能力は今日の私たちの能力よりも間違いなくはるかに優れていたと結論付けることができます。 彼には力、能力、そして技術がありました。彼はこれらすべての能力を創造主から新しく受け取ったのです。アダムの力が私たちの何十億倍であったとは言わないまでも、彼に神から命じられた義務を遂行できたはずがないとするならば、安全に見積もっても私たちの何百万倍もの力があったと見なすことができます。

今日の私たちが、もし仮に「毎日3回、通りを掃除するだけ」の仕事を命じられたとしても、終わったあとに腰をまっすぐに伸ばすことすらできないでしょう。それなのに、どうして私たちが地を支配することなどできるでしょうか。 しかし、アダムは地を支配しただけでなく、海の魚、空の鳥、地上のすべての生き物に対しても支配権を持っていました。支配するとは、ただ座って何もしないことではありません。そこには管理と労働が必要です。この事実から、私たちはアダムが実際にかつて持っていた卓越した力を見出すべきです。それは私たちの現在の状況をはるかに超越しています。

しかし、この洞察が何か新しいものだと思われるでしょうか。実際、これは聖書の教えにほかなれません。堕落する前のアダムは、仕事をした後でさえ決して疲れを感じないほどの強さを持っていました。彼が「顔に汗を流してパンを食べる」ようになったのは、堕落の後になってからのことでした。

アダムの脳力と記憶力

「そして主なる神は、野のあらゆる獣と、空のあらゆる鳥を土で形造られ、それにどんな名前を付けるかを見るために、人のところへ連れて来られた。そして、人がすべての生き物に付けた名、それがその名となった。」(創世記 2:19)

皆さん、これは驚くべきことではないでしょうか。 もしあなたが辞典を取り、すべての動物の名前を読まなければならないとしたら、それらすべてを認識することも記憶することもできないと告白せざるを得ないのではないでしょうか。しかし、アダムはすべての鳥や動物に名前を付けました。彼はいかに知性が高かったことでしょう。 私たちがあまり賢くない場合、すべての詳細を記憶する自分の無能力さを悟るやいなや、動物学の勉強をすぐに諦めてしまうに違いありません。しかし、アダムはそのような動物学の名前を暗記した人ではありませんでした。彼は「命名者(denominator)」でした。なぜなら、彼はすべてのものに名前を付けたからです。これによって私たちは、アダムの理性がどれほど豊かで完璧であったかを知ることができます。

アダムの管理能力

「そして主なる神は人を連れて行き、エデンの園に置かれた。それを耕させ、守らせるためであった。」(創世記 2:15)

アダムがどのように地を統治したかを見たところで、次に神が彼に命じられた事柄について少し考えてみましょう。 神は彼にエデンの園を耕すよう命じられました。それは体系的に行われる必要がありました。その園はどれほど広かったのでしょうか。創世記 2:10–14には、ピション、ギホン、ヒデケル、ユフラテという4つの川が言及されています。それらはすべてエデンから流れ出て、4つの川に分かれていました。

想像してみてください。その園はどれほど大きかったでしょうか。4つの川に囲まれた土地を耕すよう任されるためには、アダムはどれほど強くなければならなかったでしょうか。彼はそれを耕すだけでなく、「守る」ことも求められていました。園が敵によって侵略されるのを防ぐためです。したがって、その当時アダムが持っていた力は、途方もなく凄まじいものであったに違いありません。彼は驚異的な能力を持つ人間であったはずです。彼のすべての力は、彼の生きたたましいの中に本来備わっていたものでした。

私たちはアダムの力を「超自然的かつ奇跡的」であると見なすかもしれませんが、アダム自身に関する限り、これらの能力は奇跡的なものではなく「人間的なもの」、超自然的なものではなく「自然なもの」でした。 アダムはその日のうちに自分のすべての力を使い果たしてしまったでしょうか。創世記の私たちの研究から見えてくるのは、彼は自分の力を使い果たしていなかったということです。なぜなら、神によって新しく創造された後、自分のすべての能力を発揮する前に、彼は堕落してしまったからです。

敵がエバを誘惑したときの「餌」は何だったでしょうか。敵は彼女に何を約束したのでしょうか。それは次のようなものでした。 「あなたがたがそれを食べるその日に、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」(創世記 3:5)

「神のようになる」というのが敵の約束でした。敵はエバに対し、すでに自分が持っている力にもかかわらず、彼女と神の間には依然として大きな隔たりがあるが、この実を食べれば神の権威と知恵と力を持つことができると告げました。その日、エバは誘惑され、堕落しました。

神がアダムに与えられた力

私たちがこのような方法で探求するのは、不当に詮索好きだからではありません。私たちはただ、神が実際にアダムに何を与えられたのかを知りたいだけなのです。 「そして神は言われた。『わたしたちのかたちに、わたしたちはのかたどりに人を造ろう。』」(創世記 1:26)

「かたち(image)」と「かたどり(likeness)」という言葉は、意味が似ており、重複しているように見えるかもしれません。しかし、ヘブライ語において「かたち」という言葉は、物理的な似姿を指しているのではなく、むしろ道徳的あるいは霊的な類似性を意味しています。誰かが「似姿へと変えられること、すなわち似姿に形作られること」と表現したように、神が人を創造された目的は、人が神のかたちに従って変容させられることにありました。神はアダムに、ご自身に似た者になってほしいと望まれたのです。

悪魔は「あなたがたは神のようになる」と言いましたが、神の本来の意図は、アダムが変容して神に似た者になることでした。このことから私たちは、堕落する前のアダムには、神に似た者となる力がそのうちに備わっていたと結論付けることができます。彼は外見においてすでに神に似ていましたが、道徳的(ここで「道徳的」という言葉を使うのは、物質的なものを超えたもの、単なる人間の善い行いを指すのではないものを表すためです)に神に似た者となるよう、神によって定められていたのです。

このようにして私たちは、人類が堕落によってどれほどの損失を被ったかを知らされます。その損害の大きさは、おそらく私たちの想像を絶するものでしょう。

人間の堕落

アダムは「たましい」です。彼の霊とからだは、そのたましいの中で結び合わされています。私たちが今述べた驚異的な力は、アダムのたましいの中に存在していました。言い換えれば、霊とからだが一つに集まった結果である「生きたたましい」は、想像を絶する超自然的な力を所有していたのです。

しかし堕落の時、アダムを私たちと区別していたその力は失われました。もっとも、もはやそのような力が一切なくなったという意味ではありません。それはただ、この能力が人の中に今なお存在しながらも、「凍結」または「不活性化」されているということを意味しているにすぎません。

創世記6章によれば、堕落の後、人間は「肉」となりました。肉が全存在を包み込み、人間を従属させたのです。人間はもともと生きたたましいでしたが、堕落した今や、肉になってしまいました。彼のたましいは、本来なら霊の支配に従うべきものでしたが、現在は肉の支配に服従しています。それゆえ、主はこう言われました。 「わたしの霊は、いつまでも人と争うことはない。人は肉なのだから。」(創世記 6:3)

ここで神が人について言及されたとき、神は彼を「肉」と呼ばれました。神の目から見て、それが今の彼の姿だったからです。その結果、聖書には「すべての肉なる者は地の上でその道を乱していた」(創世記 6:12)と記録されています。さらに、「人の肉の上には(聖霊を象徴する聖なる注ぎの油を)注いではならない」(出エジプト記 30:32)、「律法の行いによって義とされる肉は、だれ一人いない」(ローマ 3:20)とあります。

宗教的観点から

なぜ私はこのことについてやや詳しく述べているのでしょうか。黙示録18章には、終わりの日に起こる事柄が述べられています。私は一番最初に、人間のたましいがバビロンにおいてどのように「商品」、すなわち売買可能なものになるかを示しました。では、なぜ人間のたましいが商品として扱われるのでしょうか。それは、サタンとその傀儡(かいらい)である反キリストが、この時代の終わりに人間のたましいを自分たちの活動のための道具として使いたいと望んでいるからです。

エデンの園でアダムが堕落したとき、彼の力は不活性化されました。彼はその力を完全に失ったわけではなく、ただ自分のうちに深く埋め込まれたのです。彼は肉となり、彼の肉はその素晴らしい力を自分の内部にしっかりと閉じ込めました。世代から世代へと受け継がれた結果、アダムのこの根源的な能力は、子孫たちの中で「潜在的な力(latent force)」となりました。それは一種の隠された力へと変貌したのです。それは人から失われたのではなく、単に肉によって縛り上げられているのです。

今日、地上のすべての人間のうちには、このアダムの力が眠っています。それは閉じ込められており、自由に自己を表現することはできませんが、アダムのたましいにあったのとまったく同じように、そのような力がすべての人間のたましいの中に存在しています。今日のたましいは肉によって包囲されているため、この力も同様に肉によって閉じ込められています。

現代における悪魔の働きは、人間のたましいをかき立て、その内部にあるこの潜在的な力を解き放つことであり、それを霊的な力に見せかけた欺瞞(ぎまん)として用いることです。私がこれらの事柄に言及する理由は、終わりの日における人間のたましいとサタンの間の特別な関係について、私たち自身に警告を発するためです。

私たちはすでに、アダムがいかに特別な超自然的能力を持っていたかを見てきました。もっとも、実際には彼が持っていたものは、今日の私たちから見ればそれほど特別でも超自然的でもありませんでした。堕落する前、アダムはこの能力を自分のたましいに体現していたため、ごく自然に、かつ容易に行使することができました。しかし、彼の堕落後、この彼の力はからだという墓に葬られてしまいました。かつてからだはアダムの力強いたましいの助けでしたが、今やたましいは堕落し、その力は肉の殻によって制限されてしまったのです。

しかし、サタンはこの肉の殻を打ち破り、人間のたましいに眠っている力を解き放つことによって、人間に対する支配権を得ようと試みています。多くの人はこの戦略を理解しておらず、宗教的なものと見なして神からのものであると誤って受け入れ、欺かれています。

しかも、これはキリスト教の中だけで起きていることではありません。バビロニア人、アラブ人、仏教徒、道教徒(タオイスト)、ヒンドゥー教徒は、それぞれの方法で、アダムが私たちのたましいに残していった力を解き放とうと試みています。 どんな宗教であれ、どのような手段や教えの道を用いようとも、それらの表面的な違いの背後には共通の原則が存在します。

その共通の原則とは、外側の肉を克服して、あらゆる束縛からたましいの力を解放し、より自由に表現させることを目指すというものです。これらの宗教で教えられる修行の中には、からだの障害を破壊することを目的とするものもあれば、からだとたましいを合一させることを目的とするもの、さらには訓練によってたましいを強め、それによってからだを克服できるようにすることを目指すものもあります。方法がどうであれ、その背後にある原則はすべて同じです。これを知っておかなければ、私たちは欺かれてしまいます。

人々が、人間のたましいに眠る驚異的なエネルギー(肉によって現在縛られているが、それを解放すれば、仙人や仏の地位に到達することに至るまで、奇跡的な力が発揮されるようになるというエネルギー)についてどのように知るに至ったのか、私にはわかりません。おそらく彼らは全員、悪魔である悪霊からそれを知らされているのでしょう。彼らの説明はさまざま異なるかもしれませんが、根底にある原則は同じです。すなわち、特別な手段を用いてたましいの力を解き放つということです。

彼らは私たちが用いるような「たましいの力(soul power)」という用語を使わないかもしれませんが、その事実は紛れもありません。例えば、仏教や道教、さらにはキリスト教の一部のセクトにおいてさえ、病気の癒やしや未来の予言といった奇跡を行うための特別な超自然的な力が、彼らの誰にでも利用可能です。

道教の禁欲的修行や呼吸法、あるいは最も単純な形態の瞑想(座禅・アブストラクト・メディテーション)などを例にとってみてください。これらはすべて、たましいの下にからだを従属させ、それによってたましいの力を解放するというひとつの原則に従って行われています。私たちが単なる迷信として片付けることのできない、多くの奇跡的な現象が実際に起きているのも無理はありません。

仏教はもともと無神論的でした。ゴータマ・シッダールタ(釈迦)は無神論者でした。これは仏教の教えに対する多くの学者や批評家の共通見解です。彼は、魂の輪廻(転生)や涅槃(ニルヴァーナ)を信じていました。

さて、私はここで仏教の講義をするつもりはありません。この宗教において、なぜ、そしてどのようにして多くの驚異が成し遂げられてきたのかを説明したいだけなのです。仏教には「世を遁れる(出家する)」という教えがあります。仏門に入る者たちは、結婚と肉食を断たなければならず、いかなる生き物も殺してはなりません。禁欲的修行を通じて、彼らは最終的にすべての食物欲を断つことに到達する場合があります。高位の僧侶の中には、未知の過去を看破し、未来を予言できる者さえいます。彼らは仏教の魔術によって多くの奇跡を行いますが、彼らが「心血(ハート・ブラッド)」と呼ぶものが高ぶるとき、来たるべき事柄を予言できるようになるのです。

これらすべての異なる種類の禁欲や禁欲的修行への没頭は、たった一つの支配的な原則から流れ出ています。すなわち、仏教徒は自分のたましいの力を解放するために、あらゆる物理的・物質的な絆を断ち切ろうと試みているのです。

私は、年齢が私よりも年上で「ユニティ・クラブ(Unity Club)」に入会した人々を知っています。彼や彼のクラブの仲間たちは、抽象的な瞑想などを実践しています。彼らが私に語るには、自分たちが入っていく段階ごとに、それぞれ独自の大きさの光があるということです。彼らが知覚する光は、彼らが洞察した真理に従うものです。私は彼らの言うことを信じます。なぜなら彼らは、からだの抑圧から解放され、それによってアダムが堕落前に持っていた力を解放することができているからです。そこには何ら驚くべき特別なことはありません。

現代の「キリスト科学教会(Christian Science / クリスチャン・サイエンス)」は、メリー・ベーカー・エディ夫人によって創設されました。彼女は病気、痛み、罪、そして死の実在を否定しました。エディ夫人はすでに亡くなっていますが、彼女の教えによれば「病気というものは存在しない」ため、人が病気になったときは、痛みに対するいかなる認識をも退けるように自分の心を働かせるだけで癒やされるとされています。 つまり、もし「病気などない」と信じるならば病気になることはなく、同様に「罪などない」と信じるならば罪を犯すこともないということです。人間の意志、心、感情を訓練して、これらすべての事柄の存在を完全に否定し、それらを虚偽的で欺瞞的なものとみなす点にまで達するならば、それらが実際には存在しないことがわかるというのです。

確かに、この教えが最初に発表されたとき、多くの人々から反対されました。特に医師たちは強く反対しました。もしこれが本当なら、医師の必要性はなくなるからです。しかし、キリスト科学によって癒やされた人々を検査した後、これらの医師たちはそれを虚偽として反駁することができませんでした。その結果、ますます多くの人々が信じるようになり、有名な科学者や医師の多くさえもこの教えを受け入れるようになりました。しかし、肉の制限から解放されるのをただ待ち構えている「たましいの巨大な力の貯水池」がそこにある以上、これは決して驚くべきことではありません。

科学的観点から

それでは、この問題を科学的な観点から見てみましょう。 現代において、心理学の分野はかつてないほどの研究を進めてきました。心理学(psychology)とは何でしょうか。その言葉自体は、たましいを意味するギリシャ語の「サイケ(psyche)」と、論説や学問を意味する「ロギア(loia)」という2つの言葉の組み合わせです。したがって、心理学とは「たましいの科学」なのです。現代の科学者たちが行っている研究は、私たちの存在のうち「たましい」の部分への探求にほかならず、霊は触れられていません。

現代の精神病理学・超心理学(parapsychology)は、フランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer)から始まりました。1778年になされた彼の最初の発見は、現在では「メスメリズム(動物磁気療法)」として知られています。メスメル自身とその弟子たちによって実践された催眠術(ヒプノティズム)は、青から生み出された藍が青よりも優れるように、弟子たちが自らの発見を通じて師を凌駕していきました。

彼らの実験結果の中には、信じられないようなものも少なくありません。その方法が、人間のたましいの内部にあるその隠された力を放出させるものであることは、ある意味で予想外のことではありません。例えば、「クレアボヤンス(透視・千里眼)」— 人間の感覚の自然な範囲を超えた事柄を知覚する力、あるいは「テレパシー(精神感応)」— 科学的に未知の、あるいは説明のつかない手段(神秘的な力の行使など)によるコミュニケーションによって、人々は数千マイル離れた場所の物事を見たり、聞いたり、匂いを嗅いだりすることができます。

メスメリズムは、すべての精神科学がそこから切り出された「岩盤」であったと言われています。メスメルの時代以前には、心霊研究(サイキック研究)は自然科学の中の独立した分科ではなく、取るに足りない位置を占めているにすぎませんでした。しかし、これらの驚異的な発見によって、それは独自のシステムへと成長したのです。

私があなたの注意を惹きつけたいのは、心理学の勉強そのものに対してではなく、これらすべての奇跡的な現象が、人間のたましいの潜在力の解放 — すなわち、アダムの堕落の後に人の中に隠されたあの能力の解放 — を通じて得られているという事実に対してです。

なぜこれが「潜在力(latent power)」と呼ばれるのでしょうか。それは、アダムの堕落の際、神がかつて彼が持っていたその超自然的な力を取り去らなかったからです。そうではなく、この力は彼の堕落とともに下り、彼のからだの中に閉じ込められたのです。力はそこにありましたが、ただ表現することができなかったのです。それゆえ「潜在力」という用語が使われます。

私たちの人間生活における話すことや考えることといった現象は、非常に注目すべき能力ですが、人の中に隠されている潜在力もまた非常に強烈なものです。もしこの力が活性化されるならば、私たちの生活にはさらに多くの驚異的な現象が現れることでしょう。現代の科学者たちがその超自然的な性格ゆえに説明に窮する多くの奇跡的な出来事は、単に「たましいの潜在力が適切な手段によって解放され得る」ということを証明しているにすぎません。

メスメルが人間の肉体に潜む神秘的な力の基礎知識を得て以降、その運動がいかに驚異的に進展したかを示す、その後の発見のリストのいくつかは、人類がその「鍵」を手に入れたときの驚くべき前進を示しています。1784年、メスメルの弟子がメスメル的睡眠の結果としてクレアボヤンス(透視)を発見し、それに付随して思考読読(テレパシー)を偶然発見したのです。

 

感覚の既知のチャネルを介さない心と心の間のコミュニケーションにより、人は自分の精神的力(サイキック・フォース)を使って、教えられることなく他人の思考を確かめることができるようになります。年月が経つにつれて、催眠術、神経学、心霊測定(サイコメトリー)、そして数え切れないほどの他の発見が続きました。

催眠術とは、人間が催眠術師による暗示に極めて高い反応を示すようになる、人工的に誘導された睡眠状態のようなものです。人間だけでなく、下等動物でさえ催眠状態に置くことができます。またサイコメトリーとは、心が人間の体の外に出て働くことができ、サイコメトリーの敏感な感受性を持つ人が過去をまるで開かれた本のように読み取ることができるという発見です。

その後、「スタリス」と呼ばれる発見が現れました。これは意志によって生み出される特殊な状態を意味し、被験者が自分の心を遠くの任意の場所に飛ばし、そこで何が起きているかを見たり、聞いたり、感じたり、匂いを嗅いだり、味わったりすることができるというものです。

次いで「パテイズム」と呼ばれる発見が現れました。これによって、心は痛みの意識から自らを遠ざけ、病気を治すことができました。当初、科学者たちはこれらの発見を自然科学の一分科として追跡していたに過ぎませんでしたが、こうした奇跡的な現象が倍増したことにより、超心理学はやがてそれ自体がひとつの科学となりました。

この科学の従事者たちにとって、多くの奇跡的現象はごく自然なものですが、私たち信者にとっては、それらは単なる「たましいの潜在力の解放」の結果にすぎないことを知っているゆえに、さらに一層自然なものなのです。

心理学者たちは、人間の内には膨大な量の力、すなわち自己制御の力、創造的力、再建的力、信仰の力、活気づける力、蘇生の力が存在すると宣言しています。これらはすべて人間によって解放され得ます。ある心理学の本は、すべての人間は神であり、ただその神が私たちの内側に閉じ込められているにすぎない、とまで宣言しています。私たちの内にある神を解放することによって、私たちは皆神になるというのです。これらの言葉は、サタンの言葉となんと似ていることでしょう。

共通のルールとして、中国であれ西洋諸国であれ、呼吸法、禁欲的修行、催眠術、予言、応答、そしてコミュニケーションといったこれらすべての実践は、ただ内なる力の解放と現れにほかなりません。

私たちは皆、中国における催眠術の奇跡的な行為について何かを聞いたことがあると思います。中国の占い師たちは、その予言の業がよく知られています。彼らは毎日少数の顧客しか相手にしませんが、その技を完成させるために多くの時間とエネルギーを費やしており、その予言は驚くほど正確です。

仏教徒や道教徒もまた、それぞれの奇跡的なパフォーマンスを持っています。欺瞞の証拠がないわけではありませんが、一見して超自然的な現れは否定できません。これらの現象の説明は単純です。彼らは偶然あるいは悪霊の導きによって、非凡な業を行うことを可能にする禁欲的修行の方法を発見したのです。

一般的な人々は、自分自身の中にこの力があることを知りません。また、多少の科学的知識を持つ人々は、この力が自分の中に隠されていることを知っていても、それがどのようにしてそうなっているのかを説明することはできません。しかし、神によって教えられた私たちには、この能力が、アダムの堕落を通じて今や肉の中に縛られている「人間のたましいの潜在力」であることが分かっています。

この力は人間とともに堕落したため、神の御心によれば、もはやこれ以上使用されるべきではありませんでした。しかし、サタンが約束した通りに、人間が自分は神と同じほど豊かであると感じられるようにするために、この潜在的な能力を発展させることがサタンの望みなのです。このようにして、間接的ではあるもののサタンの礼拝である「自己礼拝」を人間は行うことになります。

それゆえ、サタンはこれらすべての超心理学的研究の背後にいます。彼は自分の目的を達成するために、たましいの潜在的エネルギーを利用しようと最善を尽くしています。この理由から、自分のたましいの力を発展させるすべての人は、悪霊によって接触され、利用されることを避けることができません。

G・H・ペムはその著書『地上の最も古い時代』の中で、この問題をさらに別の一面から述べています。それによれば、人間が不法な力と知識を獲得し、禁じられた交わりへの入場を得るには2つの方法があるようです。

最初の方法に従おうとする者は、自分のからだを自分のたましいの支配下に置き、自分のたましいを投射できるようにしなければなりません。こうした諸能力の開発は確かに可能ですが、ごく少数の人にしかできません。しかも彼らの場合であっても、長く厳しい修行の過程を経て初めて達成されるものです。その修行の目的は、からだを完全に服従させるまで打ち砕き、この世のすべての快楽、苦痛、感情に対して完全な無感動を生み出すことにあります。それは、いかなる動揺の要素も、探求者の心の平穏を乱し、その進歩を妨げることがないようにするためです。

第2の方法は、外的知性の支配に受動的に屈することです。私たちが特に注目すべきなのは、第1の方法、すなわち「自分自身のたましいの潜在力を活性化すること」です。彼の見解は私たちの見解と完全に一致しています。

仏教徒の禁欲的修行、道教徒の呼吸法と抽象的瞑想、催眠術師の瞑想と思考集中、ユニティ・クラブの人々による静坐、そして、人々が実践するあらゆる種類の瞑想、観想、集中思考から無思考に至るまでのもの、また何百もの類似した行動は、その知識や信仰がいかに多様であれ、すべて同じルールに従っています。

それらが行うことは、人間の外側の混乱した思考、波立つ感情、そして弱い意志を、肉が完全に服従した状態での静けさの場所にもたらし、それによってたましいの潜在力の解放を可能にすることにほかなりません。これがすべての人に現れない理由は、すべての人が肉の障壁を打ち破り、あらゆる一般的なサイキック的表現を完全な静けさにもたらすことができないからです。

いくつかの事実

数年前、私は一人のインド人と知り合いました。彼は、人々の秘密を正確に暴くことができるヒンドゥー教の友人のことについて私に話してくれました。ある時、彼はそのヒンドゥー教徒の友人の能力を試したいと思い、自分の家に招待しました。案の定、そのヒンドゥー教徒は、家のそれぞれの引き出しに入れられていたものすべてを言い当てることができました。

その後、私のインド人の知人は、友人に外に行って待つように頼みました。その間に彼は、最も貴重な品物を布と紙で包み、それを箱に入れて鍵のかかった引き出しにしまいました。ヒンドゥー教徒の友人が家に戻ってくると、その貴重な品物が何であるかを誤りなく言い当てることができました。これは間違いなく、すべての物理的障壁を突き抜けることができた「たましいの力」の行使によるものでした。

先ほど引用したジェシー・ペン=ルイス夫人はかつて次のように書いています。 「私は以前、北インドで、インド政府の夏の首都であるシムラの社会の最高層にアクセスできる一人の男性に出会いました。彼はある晩、インドやアジアの他の国々のマハトマとのつながりについて私に語ってくれました。彼は、大きな政治的出来事が起きる数週間、数ヶ月も前にそれを知っていたと語りました。」

「私はニュースを電報や新聞に頼っていません。それらは過去の出来事を記録しているだけです。私たちは出来事が起きる前にそれを知るのです」と彼は言いました。ロンドンの男がインドで起きている出来事をどうして知ることができ、その逆もまた然りなのでしょうか。「それはマハトマの秘密を知る人々によって投射されたサイキック・フォース(たましいの力)によるものなのだ」と私に説明されました。

『野蛮な霊的ダイナミクス』からの引用において、ペムは、達人は他人の心を意識的に見ることができ、自分のたましいの力によって外部の霊に働きかけることができ、植物の成長を加速させたり、火を消し止めたり、ダニエルのように獰猛な野生の獣を従わせたりすることができると記録しています。彼は自分のたましいを遠くまで送り、そこで他人の思考を読み取るだけでなく、その遠く離れた対象に話しかけたり触れたりすることができます。それだけでなく、肉体の姿とまったく同じ似姿をした自分の霊体を、遠くにいる友人たちの前に現すこともできます。さらに、達人は周囲の複雑な大気の中から、あらゆる物理的オブジェクトの似姿を創造したり、物理的オブジェクトに自分の前に来るよう命じたりすることができます。

クリスチャンの姿勢

宗教や科学におけるこれらすべての奇跡的現象は、人間の潜在力の現れにすぎず、それは巡り巡って悪霊によって利用されるものです。それらはすべて、「肉の束縛を打ち破り、たましいの力を解放する」という一つの共通のルールに従っています。

私たちクリスチャンと彼らとの違いは、私たちのすべての奇跡が神によって聖霊を通して行われるという点にあります。サタンは自分の力を現すために人間のたましいの力を利用します。人間のたましいの力は、サタンが自分の悪しき目的を成し遂げるために用いる働く道具なのです。

しかし、神は決して人間のたましいの力を用いて働かれることはありません。なぜなら、それは神にとって使い物にならないものだからです。私たちが新しく生まれ変わるとき、私たちは聖霊によって生まれ変わります。神は聖霊と私たちの新しくされた霊によって働かれます。神にはたましいの力を使う願望はありません。

堕落以来、神は人間に対して、その元のたましいの力を再び使用することを禁じられました。主イエスが、私たちの「たましいのいのち」(すなわち私たちのたましいの力)を失う必要があるとたびたび宣言されたのは、まさにこの理由のためです。神は、私たちが今日、このたましいの力を全く使用しないことを望んでおられます。

私たちは、世界で行われるすべての驚異が偽りであると言うことはできません。その多くが本物であることを認めざるを得ません。しかし、これらすべての現象は、アダムの堕落後の「たましいの潜在力」によって生み出されているのです。

クリスチャンとして私たちは、この終わりの時代において、意図的であれ無意識であれ、たましいの潜在的エネルギーをかき立てないよう、非常に注意深くなければなりません。

冒頭で読んだ聖句に戻りましょう。時代の終わりに、サタンとその配下の悪霊たちが行う特定の働きは、「人間のたましいの力を商うこと」であることに私たちは気づきます。その目的は、ただこの世界をたましいの潜在力で満たすことにあります。

『オーバーコマー・マガジン』の読者寄稿者は、次のような比較を行いました — 「プシュケー(たましい)の勢力が、プネウマ(霊)の勢力に対抗して陣を敷いている」と。霊的な洞察力と感受性を持つすべての人は、この言葉の現実性を知っています。

たましいの力は、科学、心理学、超心理学、宗教、さらには過度な超自然的現れを求め、聖書の導きに従って超自然的賜物をコントロールしない無知な教会さえも利用しながら、まるで激流のように私たちに向かって押し寄せています。サタンはこの世界を暗闇の力で満たそうとしているのです。

しかしこれは、反キリストの現れに向けたサタンの最後の、最終的な準備にすぎません。真に霊的な人々、すなわちたましいの力を拒絶する人々は、自分たちの周囲にあらゆる方向から、悪霊たちからの反対の加速を感じ取っています。

あらゆる雰囲気が非常に暗くなっているため、彼らは前進することが困難であると感じます。それにもかかわらず、これは同時に、勝利者たちの携挙に向けた神の準備でもあるのです。私たちは、たましいの力とは何であるか、そしてこのたましいの力が何をし得るのかを理解する必要があります。

主の再臨の前に、これらと似た事柄が大きく増加し、おそらく百倍以上にもなるだろうと言わせていただきましょう。サタンはこのたましいの力を利用して多くの驚くべき偉業を行い、神の選民を惑わそうとするのです。

ペン=ルイス夫人が観察したように、私たちは今、大きな背教の時に急速に近づいており、その勢いは急速に増しています。「神と人間の最大の敵の手が舵を取っており、世界は暗い時間へと急ぎ向かっている。その短い期間、サタンは実際にこの時代の神となり、その到来が長く遅らせられることのない一人の超人を通して統治するのだ」と。

たましいの力とは何でしょうか。聖書に立ち返り、聖霊の照らしのもとで、信者たちはこの力が地上のすべての国々に広がり、全世界を混乱へと変えてしまうほどに地獄的なものであることを悟るべきです。

サタンは今、神の福音とその力の代用品として役立てるために、このたましいの力を活用しています。彼はたましいの力の驚異を通して人々の心をくらまし、血のない宗教を受け入れさせようとしています。

彼はまた、心霊科学の発見を利用して、キリスト教における出来事の価値に疑念を投げかけ、後者も同様に「たましいの潜在力」にほかならないと人々に思い込ませようとしています。彼はキリストの救いをサイキック・フォースに取って代わらせることを目指しています。

催眠術によって悪癖や悪い気質を変えようとする現代の試みは、この目的に向けた前兆です。神の子どもたちは、「霊」と「たましい」の違いを知ることによってのみ守られることができます。

もし十字架のより深い働きが私たちの古きアダムの命に適用されず、聖霊によって復活された主との真のいのちの連合がもたらされないならば、私たちは知らず知らずのうちに自分のたましいの力を開発してしまうかもしれません。

ここで再びペン=ルイス夫人の言葉を引用することが有益でしょう — 「今日の戦場は、ソウル・フォース対スピリット・フォースである。」

キリストのからだは、彼女の内の聖霊のエネルギーによって天に向かって前進しています。世界の雰囲気はサイキックな潮流によって濃くなっており、その背後には空中権の敵たちが結集しています。

神の子にとって唯一の安全保障は、キリストと共にあるいのちの体験的知識であり、そこでは空中権の王がその働きを行っている毒気のある空気の上で、神の内のキリストとともに住むということです。

清めのためのキリストの血、死における同一化のためのキリストの十字架、そして聖霊によって絶えず宣言され、把持され、振るわれるよみがえられた昇天の主の力 — これらだけが、からだの肢体たちを勝利のうちに導き、昇天された頭に結び合わせるのです。

今日の私の願いは、皆様がたましいの潜在力の源とその働きを知る助けを得ることです。たましいの力があるところには悪霊もまた存在するという事実を、神が私たちの心に深く刻んでくださいますように。私たちは自分から出た力を使ってはなりません。むしろ、聖霊から発する力を用いなければなりません。

サタンの手中に落ちることのないよう、私たちは特にたましいの潜在力を否定しようではありませんか。なぜなら、たましいの力はアダムの罪を通してすでにサタンの支配下に落ちており、サタンの働く道具となってしまっているからです。したがって、私たちはサタンの欺瞞に対して大いに警戒を払う必要があります。

第2章:クリスチャンとサイキック・フォース(精神的力)

私たちはすでに、神によって創造されたとき、アダムがいかに並外れた驚くべき能力を備えていたかを見てきました。これらの一見奇跡的な力は、アダムとともに堕落しました。

無知な人々は、アダムはその堕落の際にすべての素晴らしい力を失ったと考えがちですが、現代の超心理学が生み出した証拠は、アダムがその本来の力を失ったのではなく、それを自分のたましいの中に隠したにすぎないことを示しています。過去5、6千年の間、不信者の中にはこのソウル・フォースを実証することができた人々が少なからず存在しました。ここ100年の間に、ますます多くの人々がこのたましいの潜在力を発現させることができるようになっています。アダムの本来の能力が失われたわけではなく、それは単に彼の肉の中に隠されているのです。

メッセージのこの部分において、私はこの潜在的なサイキック・パワーとクリスチャンとの関係についてお話しします。その危険性を知らなければ、私たちはそれに対してどのように身を守るべきかを知ることができません。特に次の4つの事実を観察していただくようお勧めします。

4つの事実

  1. アダムには、ほとんど無限の力、奇跡に近い能力が存在する。 これを私たちは「たましいの力(ソウル・パワー)」と呼びます。現代の心霊研究者たちは、人間の内におけるこうした能力の存在を証明してきました。1778年のメスメルの発見以来、あらゆる種類の潜在力が — それが精神的なものであれ宗教的なものであれ — 発揮されてきましたが、これらはすべて人間のソウル・フォースの解放にほかならないのです。

  2. サタンは人間のたましいの潜在力を支配したいと望んでいる。 サタンは、人間のたましいの中に多くのことを行うことができるこの力が存在することをよく承知しています。そのため彼は、神の代わりにそれを自分の支配下に置きたいと願っています。サタンはそれを自分の目的のために使いたいのです。園でアダムとエバを誘惑した目的は、彼らのたましいの力の支配権を得ることにありました。

私はこれまで、善悪の知識の木と、いのちの木のもつ霊的意味について頻繁に語ってきました。善悪の知識の木の意味は「独立」、すなわち独立した行動をとることです。しかし、いのちの木は「神への依存あるいは信頼」を意味しています。この木の意義はさらに、アダムの本来の命はあくまで人間の命にすぎず、したがって生きるためには神に依存し、神の命を受け取る必要があることを私たちに伝えています。しかし、善悪の知識の木は、人間は神に依存する必要はなく、自分自身の力ですべて働き、生き、実を結ぶことができるということを露わにしています。

なぜ私はこれらの事柄を持ち出すのでしょうか。それは単に、アダムとエバの堕落の原因を示すためです。もし私たちがアダムの潜在力を解放できるなら、私たちもまた奇跡を行うことができるかもしれません。しかし、私たちはそうすることが許されているでしょうか。サタンは、人間の中にそのような驚異を行う力があることを知っていました。それゆえ、サタンは人間を誘惑して、神からの独立を宣言させようとしたのです。エデンの園での堕落は、まさに人間が独立した行動をとり、神から自分を引き離したことにほかなりませんでした。園での堕落の物語を知るとき、サタンの目的が何であったかを私たちは見出すことができます。彼は人間のたましいを獲得することを狙っていたのです。そして人間が堕落したとき、彼の本来の能力と奇跡的な力はすべてサタンの手に落ちました。

  1. 今日、サタンはたましいの潜在力を解放し、誇示したいと望んでいる。 人間が堕落するやいなや、神は人間のサイキックな力をその肉の中に閉じ込められました。彼の多くの力は、存在してはいるものの活動しない潜在的エネルギーとして、肉の中に束縛され、隠されることになりました。

堕落の後、たましいに属するすべてのものは、肉に属するものの支配と束縛のもとに置かれました。このようにして、すべての心理的力は生理的力によって支配されるようになったのです。サタンの目的は、肉という外側の殻を破壊することによって人間のたましいの力を解放し、そのたましいを肉の束縛から解き放つことであり、それによって彼の潜在力を現すことにあります。

これこそが、黙示録18章11〜13節が「人間のたましいを商品にすること」の意味するところです。実際、人間のたましいは、敵の多くの商品アイテムの一つとなってしまいました。敵はとりわけ、人間の心理的能力を自分の商品として手に入れたいと望んでいます。時代の終わりにおいて、特にこの現在の瞬間において、サタンの意図は、彼がかつて初めにエデンの園で目指したことをやり遂げることにあります。

彼は園において人間のたましいを支配する働きを開始したものの、完全には成功していませんでした。なぜなら、堕落の後、たましいの力を含む人間の全存在が肉のもとに下ったからです。言い換えれば、人間の心理的力は生理的力の支配下に入りました。敵は人間のたましいの力を利用することに失敗し、その結果、彼の計画は頓挫したのです。

これら数千年の間、サタンは人々が自分の潜在力を発現させるよう影響を与えるために骨折ってきました。彼は時折、あちこちで、そのソウル・フォースを引き出すことに成功する人々を見出してきました。こうした人々は、各時代の奇跡を行う宗教的指導者たちとなってきました。しかし、メスメルと超心理学的発見以来のこの100年の間に、心霊現象に関する多くの新しい発見がそれに続いています。これらすべては、たった一つの理由、すなわちかつて失敗した自らの働きを完遂するために、敵が人間のすべての潜在力を解放しようと意図しているという理由によるものです。これこそが、彼が何千年もかけて培ってきた唯一の目的です。金、銀、宝石、真珠、家畜や馬といった商品に加え、彼が人間のたましいを商うのはまさにこのためです。実際、彼はこの特別な商品を手に入れるために最大の力を注いできたのです。

  1. サタンはこれらの潜在力をどのように利用し、彼にとってどのようなさまざまな利点があるのか?

  • a. 彼は、かつて人間に約束した元の約束 — 「あなたがたは神のようになる」 — を成就することができるようになる。 非常に多くの奇跡を行う能力を持つことで、人間は自分自身を神と見なし、神ではなく自分自身を礼拝するようになるからです。

  • b. 彼は神の奇跡を混乱させる。 彼は、聖書の中のすべての奇跡は単に心理的な起源を持つにすぎないと人類に信じ込ませ、それによってその価値を貶めたいと望んでいます。彼は、主イエスが行ったことなら何でも自分たちにも行うことができると人々に考えさせたいのです。

  • c. 彼は聖霊の働きを混同させる。 聖霊は人間の霊を通して人の中で働かれますが、サタンは今や、人間のたましいの中に聖霊の働きに類似した多くの現象を偽造し、人々に偽りの悔い改め、偽りの救い、偽りの新生、偽りのリバイバル、偽りの喜び、その他聖霊の体験の偽物を経験させます。

  • d. 彼は、神の計画に対する最終的な抵抗のための道具として人間を用いる。 この終わりの時代において、聖霊は神の奇跡を行う力ですが、人間のたましいはサタンの驚異を行う力です。大患難時代の最後の3年半は、サタンの指示のもとで人間のたましいによって行われる大いなる奇跡の期間となるでしょう。

以上の要約として、私たちは次のことを見出します。

  1. これらすべての奇跡的な力はすでにアダムの中にあった。

  2. サタンの目的はこれらの力を支配することである。

  3. 終わりの時に、サタンは特にこれらの力を現すことに携わっており、今後もそうし続ける。

  4. これは、かつての失敗した任務を完遂しようとするサタンの試みである。

神の働きとサタンの働きの相違点

私たちはどのようにして惑わしに対して身を守るべきでしょうか。私たちは、何が神の働きであり、何が敵の働きであるかを見分ける必要があります。すなわち、どの働きが聖霊によってなされ、どの働きが悪霊によってなされるのかを見分ける必要があるのです。

聖霊のすべての働きは人間の霊を通して行われますが、敵のすべての働きは人間のたましいを通して行われます。聖霊は人間の霊を動かし、敵の霊は人間のたましいを動かします。これが神の働きと敵の働きの間の根本的な相違点です。

神の働きは聖霊によって開始されますが、敵の働きは人間のたましいにおいて開始されます。堕落ゆえに私たちの人間の霊は死んでおり、それゆえ神と交わることができません。しかし私たちが主イエスを信じるとき、私たちは新しく生まれ変わります。救われること、あるいは新しく生まれ変わるとはどういうことでしょうか。これは単なる用語の問題ではありません。私たちが主イエスを信頼するとき、私たちの内に真の有機的変化が生じます。神は私たちの霊に御自分の命を置き、それを生かしてくださいます。人間の霊が実体のあるものであるのと同様に、神が私たちの内に置いてくださるこの新しい霊もまた実体のあるものです。

ヨハネの福音書3章6節は、新しい誕生とは何であるかを私たちに伝えています。「霊によって生まれた者は霊です。」エゼキエル書36章26節は私たちに告げています — 「わたしは新しい霊をあなたがたの中に授ける」。したがって、新生において私たちは新しい霊を得るのです。

ある時、主イエスは言われました。「わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり、また命です」(ヨハネ 6:63)。したがって、私たちの命と働きはすべて「霊」の範囲内のものでなければなりません。神が私たちを用いられるとき、神は通常、私たちの霊の中において、そして私たちの霊を通して働かれます。「御霊に満たされなさい」(エペソ 5:18)は、この私たちの新しい霊が聖霊で満たされなければならないことを示しています。言い換えれば、神は私たちの霊をその聖霊で満たしてくださいます。

聖霊は私たちの霊の中で働きますが、悪霊は私たちのたましいの中で働きます。サタンはたましいにおいてのみ、またたましいの力によってのみ働くことができます。サタンには人間の霊の中で働く方法はありません。彼の働きはたましいに制限されています。過去5、6千年の間彼が行ってきたことは、彼が現在行っていることであり、将来も行い続けることです。

なぜサタンは、まるで神のように全能であり、遍在しており、全知であるかのように見えるのでしょうか。それはひとえに、彼が人間のたましいの力を用いて行うことができることによる以外の何ものでもありません。私たちはこう言うことができます — 「聖霊が神の力であるのに対し、人間のたましいはサタンの力のように見える」と。

仏教や道教の多くの禁欲的修行、呼吸法、抽象的瞑想、西欧の催眠術、そして心霊研究で見られる数々の驚異が、単に「人間のたましいの潜在力の現れ」にすぎないという事実を、多くの人々が知らないことはなんと不幸なことでしょうか。彼らはたましいの力がどれほど強力であるかを悟っていません。

兄弟姉妹の皆さん、これを些細な問題として考えたり、学者たちのための研究として片付けたりしないようにしましょう。それは実際に私たちに深遠な影響を及ぼすのです。

聖書によれば、たましいの潜在力には2つのタイプが含まれているようです。これは、心理学的観点から見られる分類と平行しています。私たちは、これら2つのタイプをきれいに分けることができないことを告白します。私たちが言えるのは、たましいの潜在力には2つの異なるタイプが存在するように見えるということだけです。一方は通常の種類であるように見え、他方は奇跡的な種類であるように見えます。一方は自然であるように見え、他方は超自然的であるように見えます。一方は人間的に理解可能であるように見え、他方は人間的理解を超えているように見えます。

心理学における「心」という用語は、聖書で使用されているものよりも広い意味を持っています。心理学者たちが「心」あるいはその一部によって意味しているのは、意識と潜在意識の2つの部分です。潜在的側面こそが、私たちが「たましいの力の奇跡的部分」と呼ぶものです。心理学者たちは意識と潜在意識の区別をつけるものの、それらを完全に切り離すことはほとんどできず、ただ分類しているにすぎないのです。

 

心理学における「心(マインド)」という用語は、聖書で使用されているものよりも広い意味を持っています。心理学者たちが「心」あるいはその一部によって意味しているのは、意識(Consciousness)と潜在意識(Subconsciousness)の2つの部分です。

潜在意識の側面こそが、私たちが「たましいの力の奇跡的部分」と呼ぶものです。心理学者たちは意識と潜在意識の区別をつけるものの、それらを完全に切り離すことはほとんどできず、ただ分類しているにすぎません。

一般的な心霊現象の多くは、意識という第一のタイプの範疇に属するものとして扱われますが、彼らは異常な、あるいは奇跡的な現象を第二のカテゴリーである「潜在意識」の範疇にグループ分けします。私たちは通常、日常的な一般的な現象のみをたましいの範囲に含めがちですが、奇妙で奇跡的な現象もまたたましいのものであることを知りません。もっとも、このタイプの現象は、個々のたましいにおける潜在力の程度の違いにより、より潜在意識の領域に属するものとなります。

人々の中には、第一のタイプにより近い現象を示す者もいれば、第二のタイプによりそれに近い現象を示す者もいます。主に仕える者は皆、この点に特別な注意を払うべきです。さもなければ、人々を助けようとするあまり、奇跡的な力に流されてしまうことになります。

もう一度、たましいと霊の違いについて繰り返しましょう。 アダムの堕落したたましいは「古い創造」に属しますが、新しく生まれ変わった霊は「新しい創造」です。神は人間の霊と共に働かれます。なぜなら、これが神の生まれ変わったいのち、すなわち新しい創造だからです。

一方で、サタンは人間のたましい、すなわちアダムにおける「堕落したたましい」を基盤として築き上げます。サタンが用いることができるのは古い創造のみです。なぜなら、新しい創造における生まれ変わったいのちは罪を犯さないからです。

今日、教会においてサタンが行っていること

サタンはどのようにして人間のたましいを通して働き、その潜在的なサイキックの力を用いて働くのでしょうか。私たちはすでに、仏教、道教、キリスト教、超心理学などの分野で多くの例を挙げてきました。それではここで、サタンが霊的な事柄においてどのように人間のたましいとソウル(たましい)を利用するかを示すいくつかの例を挙げてみましょう。これにより、クリスチャンが何が神から出たものであり、何が敵から出たものであるかを識別し、また神がどのように人間の「霊」を用い、サタンがどのように人間の「たましい」を用いるかを知る助けとなるはずです。

祈り

聖書の祈りは知性的であり、愚かなものではありません。主イエスが私たちに祈るよう教えられるとき、その最初の言葉は「天にいます私たちの父よ」です。主は私たちに天におられる御父に向かって祈るよう教えておられます。

しかし、私たちクリスチャンはしばしば、自分の部屋にいる神に向かって祈りがちです。私たちの祈りは、天におられる御父に向けて捧げられ、御父が聞いてくださるものでなければなりません。神は、私たちの感情が良いか悪いか、あるいは何の手応えもないかにかかわらず、私たちが信仰によって祈りを天に送ることを望んでおられます。

もしあなたが部屋にいる神に向けて祈り、そこからの答えを期待するならば、私はあなたがその部屋の神から多くの奇妙な感情、奇跡的な体験、そして幻を受け取るのではないかと危惧します。これらはサタンによってあなたに与えられたものであり、サタンから受け取るものはすべて、意識あるいは潜在意識のいずれかに属するものです。

誰かは、自分の部屋にいる神に向かって祈らないかもしれません。その代わりに、自分が祈る相手の個人に向けて直接祈りを向けるかもしれません。これもまた非常に危険なことです。

例えば、あなたから2,000マイル以上離れたところにいる友人がいるとしましょう。あなたは彼の為に祈り、場合によっては神に求めて、彼がみことばによってリバイバルされるか、あるいは救われるようにと求めます。しかし、神に向かって祈りを向ける代わりに、あなたは自分の思考、期待、願いに集中し、それらをひとつの力として友人に向けて発射するのです。

あなたの祈りは、あなたの思考、願望、そして願いを「矢」のように友人に向けて撃ち出す「弓」のようになります。彼はこの力によってひどく圧迫され、まさにあなたが求めた通りのことを行うようになるでしょう。

あなたは自分の祈りが聞かれたと思うかもしれませんが、言わせてください。それは神があなたの祈りに答えてくださったのではありません。なぜなら、あなたは神に祈っていないからです。それは単に、あなたが友人に向けて向けた祈りに対する「反応」にすぎません。

誰かが「自分の祈りは聞かれた。なぜなら、私は友人に祈りを積み重ねたからだ」と主張するかもしれません。確かに、あなたは神ではなく友人に向けて祈ったのですから、あなたの祈りは成就したかもしれませんが、それは神によるものではありません。たとえあなたが催眠術を知らなくても、あなたが行った隠された行為は催眠術の法則を満たしているのです。あなたは自分のサイキック・フォースを解放してこの行為を成し遂げたのです。

なぜこうなるのでしょうか。それは、あなたが天におられる神に祈らず、代わりにあなたの祈りが、あなたが祈る相手の人物に向けられ、そこに積み重ねられ、包囲攻撃のようになっているからです。見た目には祈っているように見えますが、実際にはあなたはサイキックの力でその人を圧迫しているのです。

もしあなたが特定の人格のために祈る際に自分のソウル・フォース(たましいの力)を用いるならば — 例えば、その人が罰せられないまでも、せめて懲らしめられるようにと祈るとしましょう — あなたのソウル・フォースの祈りは彼めがけて矢のように飛び出し、彼はその結果として病気になるでしょう。

これはたましいの確実な原則です。人が火の中に指を突っ込めば火傷を負うのと同様に確実なことです。この理由から、私たちは「期待通りに行動しない場合にその人が罰せられるように」と求めるような祈りをすべきではありません。そのような祈りはその人に苦しみをもたらし、その結果、そのような祈りをした者がその人の悲劇の扇動者となってしまうのです。

私たちが祈るならば、人間に向けてではなく、神に向けて祈るべきです。

私は個人的に、そのような祈りから生じた悪影響を経験したことがあります。数年前、私は1年以上病床に伏していました。これは5、6人の人々の祈りが私に積み重ねられたことが原因でした。彼らが祈れば祈るほど、私は弱っていきました。

最終的に私はその原因を見出し、そのような祈りに対して抵抗し始めました — 彼らが祈ったことから私を解放してくださるよう神に求めたのです。そうして私は健康を取り戻しました。

この関連で、ある信者から送られてきた手紙を引用させてください。

「私は今まさに、敵からの恐ろしい猛攻撃 — 出血、心臓疾患、動悸、疲労、そして全身の虚脱状態 — を乗り越えたところです。それは祈りの最中に突然襲ってきました。サイキックな祈りによって私に対して行使されるすべてのサイキックな力に抗して祈るよう立ち上がり、キリストの血の力に対する信仰によって、私はそれらから自分自身を断ち切りました。その結果は驚異的なものでした。 瞬間的に私の呼吸は正常になり、出血は止まり、疲労は消え去り、すべての痛みが逃げ去り、いのちが私のからだに戻ってきたのです。それ以来、私はリフレッシュされ、活力を取り戻しています。 この解放の確証として、神は私に次のようなことを知らせてくださいました。私の状態は、私に反対し、私のことを祈っている、欺かれた一団のたましいたちの影響であったということです。神はかつて、そのうちの2人を解放するために私を用いられたのですが、残りの人々は恐ろしい穴の中に留まっています。」

奉仕のための力

主において経験を積んだ者がリバイバル集会に同席している場合、その説教者がソウル(たましい)の力を用いているのか、それとも霊的な力を用いているのかを識別することができます。

かつて私の友人の一人が、ある説教者がいかに力強いかについて私に語ってくれました。私はその説教者にそれまで会ったことがなかったので、「私はあえて判断しません」と言いました。しかし私はノートに数言書き留めて友人に渡しました。そこには「力に満ちている。しかし、何の力か?」と書きました。

この友人は、その妻ほどには主において進んでいなかったため、私が何を書いたのか理解できませんでした。そこで彼は妻に尋ねました。そのメモを読んだ彼女は、笑いながら認めました — 「これは確かに本当の問題ですね。あの説教者は何の力に満たされているのでしょうか」と。

かつて私たちのなかの兄弟の一人が、誰かに力があるかどうかは、その人がどれほど激しく説教壇を叩くことができるかによって判断できるものではない、と指摘しました。

私たちは集会において、その人の力がサイキックなものなのか、それとも霊的なものなのかを識別する必要があります。私たちはこの力を2つの方向から判断することができます。すなわち、説教者自身から、そして聴衆からです。

もし説教者が、自分が語ったメッセージを通して人々が悔い改めたという過去の経験に頼り、同じ結果を得ることを期待して再び同じメッセージを伝えることを決意するならば、彼は間違いなく自分のサイキックな力で働いています。あるいは、多くの悔い改めの物語を語ることで人々を煽り立てようとするならば、彼もまた人々に対して自分のサイキックな力を用いていることになります。

一方で、説教者の態度が、1904年から1905年のウェールズのリバイバルにおける神の器、エヴァン・ロバーツ(Evan Roberts)のようであるならば、彼のソウル・フォースは否定されることになります。なぜなら、主のその僕(しもべ)は神に対して、自分をへりくだらせ、自分のたましいの力を縛り、自分の肉を抑え、自分から出てくるすべてのものを遮断してくださるよう求めたからです。

奉仕する者は、これら2つの力の違いを知るべきです。彼は、自分のたましいの力によってなされたことと、神の力によってなされたことを識別できなければなりません。

聖霊の働きは三つの側面を持っています。

  1. 私たちを新生させる(生まれ変わらせる)こと。

  2. 私たちが御霊の実を結ぶことができるよう、私たちのうちに内住されること。

  3. 私たちが証しの力を持つことができるよう、私たちの上に臨まれること。

さて、聖書が聖霊の「力」に言及するとき、それは例外なく働きや証しを指しています。これは私たちの「うちで働く」聖霊ではなく、私たちの「上に臨まれる」聖霊のことを指しています。聖霊の力は働きのためのものであることは明らかです。内住は実を結ぶためのものです。

聖書の原典において、聖霊の与える能力は常に「下る」あるいは「上に臨む」として語られるのに対し、聖霊の実を結ぶ側面は「うちにとどまる」として語られます。

なぜ聖霊の与える能力が「上にある」として語られるのでしょうか。それは、聖霊があなたに与える能力はあなた自身の外にあるものだからです。あなたにはそれを確信することはできません。したがって、もし集会の最中に人々から「今日の集会はうまくいくと確信していますか? 人々が救われるという確信はありますか?」と尋ねられたとき、あなたには何の確信もないと告白せざるを得ません。なぜなら、この力はあなたの外部にあるからです。聖霊の力はあなたのコントロールを越えたところにあります。

しかし、もしこれがソウル・フォース(たましいの力)であるならば、あなたには確信があります。あなたのメッセージが人々を泣かせ、悔い改めさせることができるとあなたは知っています。いわゆるダイナミックな力とは、単なるたましいの力にすぎないのです。

かつて私は力がないと感じていました。他の人々は私の説教で十分だと言ってくれましたが、私は自分があまりにも微力だと感じていました。そこで私は、年配で経験豊かな姉妹マーガレット・E・バーバー(Margaret E. Barber)のところに行き、こう言いました。 「あなたの力は偉大です。なぜ私には力がないのでしょうか?」 私たちはよく知の間柄であり、彼女はしばしば霊的な事柄で私を助けてくれました。彼女は私を真剣な目で見つめ、こう尋ねました。 「あなたはいったい何の力が欲しいのですか? あなたが感じることができる力ですか、それとも感じることができない力ですか?」

その言葉を聞いた瞬間、私は理解しました。そこで私はこう答えました。 「私は、感じることができない力が欲しいのです。」 すると彼女はこう言いました。 「あなたは次のことを覚えておかなければなりません。聖霊から来る力について、人々がそれを感じる必要は全くないということです。人間の義務は神に従うことです。なぜなら、聖霊の力は人間が感じるために与えられるものではないからです。」

霊における感覚というものは別の問題であることを心に留めておいてください。私の義務は、自分のソウル・フォース(すなわち私自身の力)を縛ってくださるよう神に求めることです。私は神に絶対的に従うべきであり、残りは神にお委ねするのです。

もし私たちがソウル・フォースで働くならば、ある事を行えばどのような結果が得られるかをあらかじめ知っている催眠術師たちのように、それを感じ取ることができます。彼らは最初から最後までのステップを知っています。

説教壇の危険性は、多くの説教者たちが自分自身のサイキックな力を用いていることに気づいていないという点にあります。彼らは自分に力があると思い込んでいますが、実際には人々を勝ち取るために心理的な力を使っているにすぎないのです。

ある人たちは、説教者たちは人々を操作するための心理学の使い方の専門家になったと示唆しています。しかし、私はそのような操作を強く拒絶します。なぜなら、たとえ私たちがサイキックな手段で人々を引き付ける方法を知っていたとしても、私たちは意図的にいかなるサイキック・フォースをも用いるべきではないからです。

かつて私が山東省で働いていたとき、そこのある教授が同僚に対して「これらの説教者たちは感情で働いている」と語ったことがありました。たまたまその日の午後に信者たちに説教をした際、私は感情がいかに頼りなく、無用であるかについて話しました。最初の教授から「説教者は感情を使う」と聞かされていたその同僚の教授もまた、その集会に参加していました。私の話を聞いた後、彼は「あの話をしてくれた教授がここにいなかったのは残念だ」と言いました。

忘れないようにしましょう。感情を通してなされたすべての働きは、疑わしいものであり、一時的なものです。

聖霊の力によってなされた働きにおいては、人間が自分の力を発揮する必要もなければ、自分で何かを成し遂げる必要もありません。もし働きがソウル(たましい)の力によってなされているならば、多大なエネルギーを注ぎ込み、数多くの手法 — 泣くこと、叫ぶこと、飛び跳ねること、絶え間なくコーラスを歌い続けること、あるいは感動的な話をいくつも語ることなど — を用いなければならなくなります。

私は賛美歌や物語を使ってはならないと言っているのではありません。ただ、すべてのことは適切な範囲内で行われなければならないということです。これらの手法を用いる目的は、聴衆を扇動しようと試みること以外の何ものでもないからです。

誰もが知っているように、一部の人々には独特の磁力のような魅力があります。彼らは他の人たちよりも見た目が優れているわけでも、雄弁なわけでもないかもしれませんが、それでも人々を自分自身に引き付けることができます。

人々から「あなたにはあの人に対して大きな影響力があるのだから、なぜ彼をこちら側に引っ張ってこないのですか」とよく言われたものです。それに対する私の答えは、「それは無駄です。なぜならそれは単に自然なことであり、霊的なものでは全くないからです」というものです。

多くの人々は、キリスト教が一種の心霊現象であり、心理学の領域に属しているかのように誤解しています。しかし、私たち信者が最初にその間違いを犯しているのですから、私たちは彼らを本当に責めることはできません。

神の力があなたの両親や子供たちを引き寄せないのであれば、あなたの自然な魅力がどれほど偉大であれ、それは何の役にも立ちません。たとえあなたのダイナミックな力で彼らを引き寄せることができたとしても、それで本当に何かを得たと言えるでしょうか。平安と喜びでしょうか。

キリスト教における最高の到達点

キリスト教における最高の到達点とは何でしょうか。それは、神との完全な連合、そして自己の完全な喪失です。

現代の心理学においても、人間が自分のアイデンティティを失うに至るような、いわゆる「見えない心と人間との連合」というものが存在します。これはキリスト教に似ているように見えますが、実際にはこの二つは大きくかけ離れています。

かつてオックスフォード・グループ運動の指導者であったフランク・ブックマン博士(Dr. Frank Buchman)は、この種の心理学を提唱しました。彼の教えの一つに「瞑想」に関するものがありました。彼は、瞑想こそが人間と神の間のコミュニケーションに必要なすべてであると見なしました。彼は人々に早朝に聖書を読むことを求めず、ただ瞑想し、そして祈ることを求めました。

彼が宣言するには、祈りの直後に浮かんだ最初の思考こそが、神によってあなたに与えられた思考であるため、あなたは一日をその思考に従って生きなければならないというのです。これが、単なる静坐や抽象的瞑想の別の形にすぎないとは、誰が想像するでしょうか。

そのような瞑想の効果は何でしょうか。それはあなたを最も平安で喜びに満ちた者にしてくれると言われます。もしあなたがどのようなものであれ、自分の思考を1時間静かに一つのことに集中させるなら、あなたもまたいわゆる「平安と喜び」を手に入れることができるでしょう。たとえ何も考えずに抽象的に1時間を無思考のまま瞑想したとしても、このいわゆる平安と喜びを得ることから外れることはありません。

多くの人々の瞑想は、単なる一種のサイキックな働きにすぎません。しかし、キリスト教信仰はそうではありません。私たちは神について瞑想する必要はありません。なぜなら、私たちにはすでに「神のいのち」があるからです。私たちは直観において神を知ることができます。私たちの感情がどうであれ、私たちの中には神の知識へと導く直観的な導きがあります。

それに加えて、私たちには神の言葉があります。神の言葉が何と言おうとも、私たちはそれを信じます。もし私たちに信仰があるなら、感情を無視することができます。ここに、キリスト教信仰と心理学の違いがあります。

奇跡

奇跡について見てみましょう。私は個人的には奇跡に対して敵対的ではありません。私は自分の目で瞬間的な神の癒やしのケースを目撃したことがあります。

病気を癒やすことができると公言する人たちがいます。私たちは癒やしに反対しているわけではありません。私たちはただ、誤った癒やしの方法に異議を唱えているのです。

ある人たちは私に、異言を語ることに反対しているのかと尋ねます。もちろん反対しません。ただし、誤った手段によって得られた異言については疑問視しますが。

幻や夢に関しても、私は大きな光を見てきました。私たちは聖書の中にそのような事柄が存在することを認めています。しかし、私は不法な手段によって得られた幻や夢には断固として反対します。

聖書には「按手(手を置くこと)」や「油を注ぐこと」について書かれています。しかし、ある人たちは他人の頭に手を置く際、その人の脳の後頭部や首筋を強く揉み続け、その人がどう感じるかを尋ね続けます。当然ながら、マッサージされれば首筋は温かく感じられるようになります。これは催眠術師でさえ使うのを拒むような、非常に低劣なトリックです。

私たちは、脳の後頭部には脊椎へと伸びる大きな神経があることを知っています。マッサージを行っている本人は、これが一種の催眠術であることに気づいていないかもしれません。マッサージを受けている人は、脊椎を通り抜ける電流や温かさを感じ、さらには癒やされたと感じるかもしれません。しかしそれは、人間のたましいの潜在的サイキック・パワーの現れにすぎないのです。その人が良くなったという事実にもかかわらず、私はそれを神の癒やしとして認めることはできません。

聖霊のバプテスマ

聖霊のバプテスマについてお話ししましょう。私が今回山東省にいたとき、私も人々にそれを求めるよう語りました。それにもかかわらず、多くの人々を数日間にわたって小さな部屋に閉じ込め、断食や祈り、コーラスの歌唱を行わせるようなやり方は承認しません。

もし人々がそのようなことを行うなら、そう時間をかけずして脳がボーッとし、意志が受動的になり、唇が奇妙で意味不明な言葉や異言を発するようになります。そしてこのようにして、彼らの潜在力が解放されるのです。

聖霊のバプテスマを求める集会において、人々は「ハレルヤ」を何千回も叫び続けます。やがて彼らの脳は鈍くなり、心は麻痺し、幻を見始めるようになります。どうしてこれを「聖霊のバプテスマ」と見なすことができるでしょうか。それは単なる「たましいのバプテスマ(ソウル・バプテスマ)」にすぎません。

彼らが受けているのは聖霊の力ではなく、ソウル・フォース — すなわち、たましいの潜在力の現れです。それは神からの授与ではなく、人間の修行から生じるものです。これは聖霊のバプテスマを求めるための正しい方法ではありません。それにもかかわらず、人々は依然として神の指示からではなく自分たちの過去の経験から学んだ方法で、他の人々にこのように指導し続けているのです。

これを読んだある人から、「あなたの言うことによれば、本物の奇跡は一切存在しないということになりますか?」と尋ねられるかもしれません。

もちろん本物は存在します。私たちは神から来るすべての奇跡について神に感謝します。それにもかかわらず、もし奇跡が神から出たものでないならば、それは人間の潜在的サイキック・パワーによって行われたものであるということを、私たちは識別する必要があります。

私が山東省にいたとき、長年病床に伏していた女性が完全に癒やされたという話を聞きました。もし彼女の癒やしが本当に神からのものであったなら、私は彼女のために神に感謝したことでしょう。

サイキック・フォースを知る

キリスト科学教会(Christian Science)の創始者であるメリー・ベーカー・エディ夫人は、死、病気、痛みの存在を否定しましたが、彼女自身は亡くなりました。しかし、キリスト科学教会は彼女よりも長く生き延び、繁栄し続けています。彼らは依然として、「病人が自分が病気ではないと信じるならば痛みを感じないだろうし、死にかかっている人が死なないと信じるならば死なないだろう」という概念に賛同しています。

その結果、多くの人々が癒やされています。彼らの伝道者たちは、身体的苦痛を和らげるために、人間のたましいの潜在力を解放することによって人間のサイキック・フォースを強化しようとしているにすぎません。たましいの潜在力の開発により、肉体の弱さが克服されるのです。

現代において奇跡は増加しています。これら多くの奇跡は非常に超自然的かつ奇跡的ですが、それにもかかわらず、これらすべては「たましいの潜在力の現れ」にすぎません。

私は預言者ではありませんが、預言に関する書物を読んできました。私は、今後はたましいの潜在力がさらに大きな現れを見せることになると学びました。なぜなら、終わりの日において敵は自分の働きを成就するために人間のサイキック・フォースを捉えるからです。もし彼がこの力を捉えることに成功するならば、彼は偉大な奇跡を行うことができるようになるでしょう。

二つの極端に固執する二種類の人々が存在します。 一つのクラスは、「奇跡など存在しない」と主張する人々です。神の癒やしのような奇跡について耳にすると、彼らは聞くことさえ拒絶します。 もう一つのクラスは、奇跡にあまりにも重点を置くあまり、その奇跡がどこから来たのか — 神からなのか、それとも敵からなのか — を気にかけない人々です。

今日、私たちはどちらの極端にも屈しないよう注意深くならなければなりません。私たちが奇跡を見たり聞いたりするたびに、私たちは自問しなければなりません。「これは神の仕業だろうか、それとも敵の仕業だろうか? これは神の聖霊によってなされたものだろうか、それとも人間の心理学の法則によってなされたものだろうか?」と。

今日、私たちは物事を行うために、心(マインド)、意志、感情といった能力を用いるべきですが、私たちのたましいにある潜在的な力を発現させてはなりません。心、感情、意志は人間のサイキックな器官であり、人間が使わざるを得ないものです。なぜなら、人間がそれらを使わなければ、悪霊がそれらの使用を乗っ取ってしまうからです。

しかし、もし人間がこれら能力の背後にある「潜在力」を使おうと欲するならば、悪霊は彼にあらゆる種類の偽りの奇跡を与え始めるでしょう。

たましいとそのサイキックの法則によってなされたすべての働きは偽物です。本物であるのは、聖霊の力によってなされたものだけです。聖霊には独自の働きの法則があります。ローマ人への手紙8章2節に「いのちの御霊の法則」と記されている通りです。

神に感謝します。聖霊は本物であり、聖霊の法則は事実です。聖霊の法則に従って行われる奇跡は、神から出たものです。

イスラム教徒が主イエスを信じることは極めて困難です。そのため、キリスト教に改宗する人は比較的少数です。さて、イスラム教徒はどのように祈るでしょうか。彼らは毎日3回、自分たちのモスクで祈ります。彼らは、何かを成し遂げる必要があるならば、何万人もの人々と心を合わせて祈りなさいと言います。

ペン=ルイス夫人が記しているように、デリーの偉大なジャマ・モスクで行われた多数のイスラム教徒の祈りの群れを考えてみてください。そこでは10万人のムハンマドの従者たちがモスクの内側に集まり、さらに大規模な群れが外で祈りに加わっていました。彼らは何のために一致して祈っていたのでしょうか。彼らは、トルコがリバイバルされ、白人種の支配から解放されることを叫び求めたのです。

彼らのサイキック・フォースは勝利を得ました。「セーヴル条約の修正 — トルコが失ったすべてのものが回復されなければならなかった — を指し示すだけで十分である」とペン=ルイス夫人は続けて述べています。「一つの東洋の国家が、すべての西洋の国家を合わせたものに対して挙げたこれほど偉大な勝利は、想像すらできません。」

インドの何百万もの人々によって与えられ、信じられている説明は、「ソウル・フォース(たましいの力)」という言葉で表現されます。

不幸なことに、多くのクリスチャンたちの祈りは神によって答えられるのではなく、彼らのたましいの潜在力の投射によって達成されています。彼らはイスラム教徒とほとんど同じ方法で自分の目的を成し遂げているのです。

次に、ヒンドゥー教において示される力を見てみましょう。あるヒンドゥー教徒たちは火傷を負うことなく火の上を歩くことができます。これはフェイクではありません。彼らは火の上を、ほんの数歩ではなく、熱せられた鉄の上を足で踏みしめながら長い距離を歩きますが、それでも傷つきません。彼らの中には、先端が上を向いた釘のベッドの上に横たわることができる者もいます。当然ながら、彼らが初心者に数える人々はこのようなことに耐えることができず、痛みや傷を感じるでしょう。これもまた、サイキック・パワーの開発の問題なのです。

信者たちが、ヒンドゥー教徒が用いるのと同じ力で奇跡を行うことは、なんと恐ろしいことでしょうか。

集会の最中、キリストクリスチャンたちは非常に頻繁に、自分たちに押し寄せてくる一種の力や、祈りや聖書朗読の時でさえ理由もなく圧迫されていると感じることがあります。これらはすべて、私たちを抑圧するために、あるいは攻撃するためにサイキックな力を用いるサタンから来ています。

世界中の経験豊かなクリスチャンたちは、この時代の終わりにおける敵のとりわけ激しい攻撃を認識しています。世界の雰囲気全体がサイキックな力で重く満たされているように見えるため、私たちは主の尊い血の下に身を隠し、それによって守られる必要があります。

巨大な大聖堂で説教を聞いているとき、もしソウル・フォースが働いているなら — 何か自分を煽り立てるようなものがそこに存在しているなら — あなたはそれをほとんど瞬時に感じ取ることができます。たとえ説教者が「何人かの人が悔い改め、救われた」と発表したとしても、救われたと公言された人々が受ける結果をあなたは考慮する必要があります。なぜなら、その働きの中には不適切な力が混ざり込んでいるからです。

もしその力が神から、すなわち神の霊から来たものであるならば、あなたは軽やかで澄み切った感覚を覚えたはずです。しかし、敵によって用いられるサイキック・フォースは、大勢の群れの存在によってかき立てられるものです。

私たちが惑わされないよう、違いを識別できるようにしようではありませんか。時はすでに満ちました。サタンはあらゆるエネルギーを奮い立たせ、宗教家、精神科学者、さらにはクリスチャンたちのなかにさえあるたましいの潜在力をかき立てるために、あらゆる手段を用いています。

これが私たちの目の前にある現実です。私たちは、識別ができるように主の光を求めて祈るべきです。

第3章:スピリット・フォース(霊の力) vs サイキック・フォース(精神的力)

私たちは、「たましいの潜在力」というこの重要なトピックを続けます。私たちは、サイキック・フォースが何をし得るかを見てきましたし、神の事柄と神のものではない事柄をどのように区別すべきかを聞いてきました。この時代の終わりに際して、多くの驚異、奇跡、そして超自然的な偉業が存在します。これらは神ご自身によって行われているのでしょうか、それとも別の種類の力の働きによるものなのでしょうか。

私たちは、霊的なものとソウル(たましい)的なものをどのように切り分けるべきかを知る必要があります。私たちはここで、たましいの力がどのように働くのか、すなわちその働きの方法はどのようなものであるのかについて、さらに深く語っていきます。そのような知識は、何が神から出たものであり、何が神から出たものではないのかを私たちが知るためのさらなる助けとなるでしょう。

聖書における預言

しかしまず、この時代の終わり、そして主の差し迫った再臨の前にどのような徴(しるし)があるのかを発見するために、聖書に目を向けてみましょう。

「偽キリスト、偽預言者たちが起こって、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしと不思議を見せるからです。」(マタイ 24:24)

「また、私は海から一匹の獣が上ってくるのを見た。それには十の角と七つの頭があった。その角には十の冠があり、その頭には神を冒涜する名がついていた。私が見たその獣はひょうに似ており、その足は熊の足のようで、その口は獅子の口のようであった。龍は自分の力と王座と大きな権威をその獣に与えた。 私が見たその頭の一つは、死んだように傷つけられていたが、その致命的な傷も癒やされた。全地は驚いてその獣に従い、龍がその獣に権威を与えたので、人々は龍を拝んだ。また、彼らは『だれがこの獣に匹敵しうるか。だれがこれと戦うことができようか』と言って言った。 この獣には、傲慢なことを言い、冒涜を吐く口が与えられ、四十和月間活動する権威が与えられた。そこで彼は口を開いて神を冒涜し、神の御名と、その幕屋、すなわち天に住む者たちを冒涜した。また彼は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことを許され、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。 地上に住む者で、この獣を拝む者はみな、その名が、屠られた小羊のいのちの書に、世界の基礎が据えられた時から書き記されていない者たちである。耳のある者は聞きなさい。 虜にする者は、自分も虜になる。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある。 また私は、もう一匹の獣が地から上ってくるのを見た。それには小羊のような二つの角があり、龍のように語った。彼は最初の獣が持つすべての権威をその前で行い、地とそこに住む者たちに、致命的な傷が癒やされた最初の獣を拝ませた。 また、彼は大きなしるしを行って、人々の前で火を天から地上に降らせさえした。」(黙示録 13:1–13)

「その時になると、不法の者が現れます。主イエスは彼を口の息をもって殺し、来臨の現れによって滅ぼしてしまわれます。その不法の者の来臨は、サタンの働きによるものであって、あらゆる力と、しるしと、偽りの奇跡と、滅び行く者たちに対するあらゆる不義の惑わしとを伴っています。彼らが滅びるのは、救われるために真理に対する愛を受け入れなかったからです。」(2テサロニケ 2:8–10)

これらの聖句を説明する前に、2テサロニケ2章9節で「偽りの奇跡」と言われていることに注目してください。奇跡は実際に引き起こされるのですが、人々を惑わすという目的を持っています。これらの現象は幻想ではなく事実ですが、その動機が欺瞞的なのです。

今読んだ3つの聖句はすべて、ひとつの事柄を指し示しています。これらは大患難の期に起こる出来事です。しかし疑いなく、これらの出来事のいくつかは大患難の時が来る前にも起こるように見えます。これは聖書における明らかな法則に従っています。すなわち、預言の成就の前には、通常、その最終的な実現の前兆となる似たような事柄があらかじめ起こるということです。

この理由から、多くの預言学者は、大患難の最中に起こるであろう事柄が、将来の日のように強烈ではないにせよ、現在次々と起こっているということに同意しています。

上記で引用した聖書の言葉は、すでに大患難の期間の特徴を私たちに示してくれました。その時には、主の来臨の前に大きなしるしと奇跡が存在するようになります。反キリストが特に好んで行うのは、しるしと奇跡です。

人物が到着する前に、まずその影が見え、その声が先行して聞こえるのは常識です。同様に、大患難の到着前にも、大患難のしるしと奇跡の「影と声」はすでに存在しているのです。しるしと奇跡は大患難の最中に最も一般的になるため、これらは私たちの現代において増大せざるを得ません。

個人としての注記

さらに先に進む前に、ひとつ注記をしておきたいと思います。 私個人は、奇跡に対して敵対的ではありません。聖書には多くの奇跡が記録されており、それらは最も貴重で極めて重要です。

私は過去において、信者がいくつかの点において成長する必要があることを強調してきました。ここでそれらをもう一度繰り返させてください。

  1. 救われた後、聖書の適切な知識を求めるべきである。

  2. 勝利、聖潔、完全な愛など、霊的生活において進歩することを望むべきである。 これは非常に重要です。

  3. 魂(たましい)を勝ち取ることに熱心であるべきである。

  4. 神の奇跡的な働きを見ることができるよう、純粋な信仰をもって神を信頼すべきである。

今日の教会には多くの欠陥があります。多くの信者は聖書の解釈以上のものに興味を示しません。彼らの知識は素晴らしいものですが、霊的生活の成長を心にかけず、追い求めもしません。あるいは一歩進んで、より高い生活や神のより深い事柄を調べる人もいるかもしれませんが、他の3つの側面を無視しています。さらに他の人々は情熱を持っていますが知識がありません。このような一方的な奮闘は不健康です。

今日の教会において、聖書を文字通りあるいは霊的に解釈しようとする人や、より深く豊かな生活を追い求める人、あるいは魂の獲得に熱心な人の数が不足していない一方で、神から何かを得るために生きた信仰をもって神を信頼する人がほとんどいないということは、驚くべきことではないでしょうか。すべての信者は、偏った状況にならないよう、成長のこれら4つの側面を均等に発展させるよう努めるべきです。

したがって、私は奇跡に反対しているわけではありません。それどころか、私はそれらを高く評価しています。それにもかかわらず、私は偽りの奇跡や偽りの不思議ゆえに、識別を求めているのです。ですから、私がこれらの偽物について語るとき、奇跡そのものに反対する意図は微塵もありません。

神のすべての働きは、私たちの霊の協力のもとで聖霊によってなされるのであり、決して人間のたましいによって実現されるのではないということを覚えておいてください。

サタンこそが、堕落ゆえに今や人間の肉の中に隠されているサイキック・フォース(人間のたましいの力)を利用する者です。したがって、彼が終わりの日に自らの力と権威を与えられる反キリストを興し、人間のたましいの潜在力に頼らざるを得なくなるのは避けられないことです。

ここで、特定の現象がいかにして「霊的な力の示威」ではなく「たましいの潜在力の現れ」であるかを私たちが理解する助けとなるよう、いくつかのアプローチ(例)を挙げましょう。私たちはすでにたましいの力の「奇跡的側面」を扱ってきたため、ここではその「非奇跡的側面」に焦点を当てます。

例1:個人伝道

私たちの心理的条件が人によって異なるように、私たちのたましいの力も異なります。ある人々はより強い心(マインド)を持っており、時には他人の思考を読むことができます。

人は、相手と会話するための適切な言葉を見つけるために、その人の思考を知らなければならないと考えるかもしれません。これは拒絶されるべき「自然な知る方法」です。

私自身の個人的な経験からこの点を例示することをお許しください。人々との関わりにおいて、私は少しの言葉を交わしただけで、彼らの思考を容易に確かめることができます。特別な理由もなく、ただ分かってしまうのです。

私が主に仕え始めた当初、相手の心を捉えるそのような自然な知覚は、働きにおいて最も役に立つと思っていました。しかし、より良く理解するようになってからは、二度と自らの自然な能力を使おうとは思いませんでした。今ではそのような状況が生じるたびに、私はすぐに祈りをもって抵抗します。

人々と話す際、彼らが心の中で何を考えているかをあなたが知る必要はありません。さらに言えば、たましいから出て、その力によってなされたことはすべて虚無に終わるため、無益です。もし働きがサイキックな力によってなされるならば、たとえ相手が助けられたと告白したとしても、その人の存在の深い部分に真の益が置かれていないため、その人の命を建て上げることはありません。

ですから、ある人があなたのところに来たとき、あなたにとって最も重要なことは、その人をどのように助けるべきかを神に示してくださるよう求めることです。あなたは主に対し、その人が何を考えているのかも、彼のサイキックな状態や霊的な状態も分からないため、適切な言葉を与えていただくために全く神に依存して主の御前に来るのだと告げるべきです。あなたに必要なのは、神からの助けを受け取るために、自分自身を完全に脇に置くことです。

例2:リバイバル集会

よく説教をする多くの兄弟たちが集会の問題について私に言及することは、かなり驚くべきことです。彼らが主張するには、教会の堂に入ったとき、照明が薄暗く、出席者が少なく、空席が目立つ場合、立って説教をする際の力を失ってしまうように感じられるというのです。しかし、照明が明るく輝き、聴衆が満員で熱狂的であるならば、彼らは力が増すように感じられます。

しかし、これはどのような力なのでしょうか。率直に言わせていただければ、これはあなた自身のソウル・フォース(たましいの力)の力以外の何物でもありません。聖霊から来る力は、外側の環境によって影響を受けることは決してありません。

「たましいの力による説教」とは何であるかを知りたいと思う人は誰でも、人々で溢れかえり、最高の設備が整った大きな集会に出席し、人々の賛美を聞き、聴衆の動きを観察するだけで十分です。あなたは混雑した場所に特別な力が満ちているのを感じることができるでしょう。

これは何の力でしょうか。あなたに押し寄せる力を感じますか。それが聖霊の力であるはずはありません。それは「たましいの力」です。なぜそれがたましいの力と見なされるのでしょうか。

彼らが賛美において行っていることを見つめてみてください。彼らは一つの方向に向かって一斉に歌い、その結果、群衆によって生み出されたすべてのソウル・パワーが集約されることになります。この力がいかに巨大であることでしょう。あなたは彼らを助ける意図を持って来るかもしれませんが、そのような雰囲気の中では、代わりに彼らによって影響を受けてしまうでしょう。これはいかに危険なことでしょうか。

主の僕たちの非常に多くが、出席者の数や集会の雰囲気などが彼らの働きを助けたり妨げたりする、という同じ話を私にしてくれます。私はいつも、彼らが自分の力で説教しているからこそ、環境によって左右されているのだと答えます。

例3:賛美(歌)

多くの場合、歌うことは神の働きにおいて大きな助けとなります。しかし時には、それが「ソウル(たましい)的な活動」にならざるを得ないこともあります。

多くの人々は、音楽が素晴らしい特定の教会グループを訪れるのを好みます。あるグループは、単にパイプオルガンを設置するためだけに100万ドル以上を費やします。そのような場所に行くと、オルガンの音や歌声を聞いた瞬間に、自分の霊が即座に神の臨在へと解放されると語るのを聞いたことがあります。

確かにそのようなことは起こります。しかし、彼らは本当に神の臨在へと引き入れられているのでしょうか。このような小さな魅力によって、人々の霊が解放され、神へと近づけられることなどあるでしょうか。これが神の方法でしょうか。

私は、これらの場所における多くの取り決めが肉的なものであることを危惧します。彼らはオルガンや歌の音を通して、人間の感情をかき立て、宗教的本能を刺激しようとしているのです。そのような力は神から出たものではなく、賛美歌や音楽から出たものです。

私たちも賛美歌を歌いますが、賛美歌だけに信頼を置くことはしません。聖霊によってなされたことだけが益となるのであり、他の何ものも私たちの霊に届くことはできません。

人里離れた田舎に行ったことがありますか。感謝なことに、神は私に一度そのような場所を訪れる機会を与えてください際した。私は海辺のある村に行きました。そこの住民は皆漁師でした。その村の周辺には信者が点在していました。彼らは時折20人、30人、あるいは50人、60人が集まって集会を開いていました。

彼らが皆一緒に集まって歌うとき、なんと不揃いなメロディが耳を刺すことでしょう。ある人は速く歌い、ある人は遅く歌うため、速い人たちがすでに最後の行を歌い終わっても、遅い人たちが追いつくまでしばらく待たなければならず、数分間のズレが生じるのです。

このような状況のもとで、果たして集会を持つことができるでしょうか。あなたならおそらく焦燥感で死にそうになり、あなたの力はすっかり消散してしまうでしょう。

ある兄弟は、彼らの歌を聞いた後、もはや説教ができなくなったと私に語りました。私は彼に対し、それには理由があると答えました。「その力はあなたから出たものだったのか、それとも神から出たものだったのか?」と。

あなたも私も、通常は環境を見つめ、それに影響を受けます。しかし、もしそれが聖霊によるものであるならば、私たちは環境をコントロールしているはずです。これは私たち一人ひとりが固く保持すべき深い原則です。環境に支配されないよう、私たち自身のサイキック・フォースを用いないようにしようではありませんか。

時に、重苦しい雰囲気の中で、人々を解放するために歌が神によって用いられることがあります。祈りも時に助けとなるでしょう。しかし、もし私たちが歌や祈りを中心に据えるならば、私たちは「たましいの力を解放する危険」に直面することになります。

多くの人々は6日間不注意に生き、日曜日に教会の集会に出席します。彼らは多くの賛美歌の歌唱を聞き、温かさと喜びを感じます。しかし、この種の温かさと喜びがどこから来るのかを問い合わせてみようではありませんか。

私はそこに何らかの欠陥があることを証明できます。もしある人が6日間適当に生き、1日だけ神のもとに来るならば、彼は代わりに罪悪感を感じ、自分を責めるべきではないでしょうか。それなのに、どうして歌が彼に温かさと喜びを感じさせるのでしょうか。これが霊的な力であるはずがありません。私は狭量な批評家になりたいわけではありませんが、行き過ぎた歌唱はたましいの力をかき立てるということを指摘しなければなりません。

例4:聖書解釈

聖書を学ぶにおいてさえ、たましいの潜在力を発現させる危険性が存在します。

例えば、誰かがある聖書の通路について困惑しているとします。彼はそれが何を意味するのか理解できないため、道を歩いているときも、ベッドで寝ているときも、書斎に座っているときも、電車に乗っているときも、絶えずそのことについて考えています。

突然、一筋の光が彼を照らします。彼は今や、その通路を論理的に自分自身に解釈できるようになります。もし彼が優れた記憶力を持っているなら、間違いなくそれを自分の心に蓄えるでしょう。彼の記憶力がそれほど鋭くないなら、それをノートに書き留めるでしょう。

そのような突然の解釈は素晴らしいものではないでしょうか。しかし、尋ねられなければならない質問があります。「これは信頼できるものだろうか?」ということです。なぜなら、それは時にたましいの力から来ることがあるからです。

その結果を見ることによって、その解釈を正しく判断することができます。なぜなら、そのような斬新で特別で一見深遠な解釈は、霊的な実を結ばないかもしれないからです。彼自身がそこから命を得られないだけでなく、解釈を語る際に他の人々に命を分かち合う方法も持たないかもしれません。彼ができることといえば、人々の「心(知性)」を少し助けることくらいです。

例5:喜び

非常に多くの人々が、自分の感覚の中に「喜び」を持つことを望んでいます。いわゆる「聖なる笑い(Holy laugh)」は、その極端な例です。

聖霊に満たされているならば、必ずやこの「聖なる笑い」を持つようになると教えられます。この種の笑いを持つと主張する者は、自分をコントロールすることができません。特別な理由もなく、彼はまるで特定の病気に感染したかのように笑い、笑い、笑い続け、部分的に狂っているように見えます。

ある集会で説教が終わった後、全員がこの「聖なる笑い」を追い求めるべきだと発表されました。全員がテーブルや椅子を叩き始め、周りを跳びはね、それほど時間も経たないうちに、このいわゆる「聖なる笑い」がやってきました。人々は単にお互いを見つめ合っては笑い出し、考えれば考えるほど面白くなり、自分を抑えることができずに笑い続けました。

これは何でしょうか。これが聖霊の満たしであるなどということがあり得るでしょうか。これが御霊の働きであり得るでしょうか。いいえ、これは明らかにたましいの働きのひとつです。

私がこの極端な事例に言及したのは、わずか2度か3度(1%や2%)の不正確さによって、私たちがどのように脱線してしまうかを、極端な例を通して例示するためです。

愛するクリスチャン仲間であるバーバー氏(Mr. Barber / ※Miss Barberの誤記か)がここで私たちと共に集っていた際、私が彼から得た特別な助けは、彼の次のような観察でした — 「ある事柄が正しいか誤っているかを見るためには、それを100度(100倍)に拡大してみればよい。すなわち、それが何であれ極端なところまで引き延ばしてみることだ」と。

指導的原則は、もしそれが100度(極端)の段階で誤っているならば、その人はそれが1度や2度の段階でも誤っていることを知る、ということです。1度や2度だけの段階で判断することは非常に困難です。誤りがある場合、そのような誤りは小さすぎて識別できないからです。しかし、状況や環境を引き延ばしたり拡大したりすることによって、すべてが最も明確になります。

中国の諺に「寸鉄の狂いは千里の差となる(わずかな狂いが千里の離れとなる)」というものがあります。わずか一分や一厘の誤りから始めても、最終的には千里の開きがあることに気づくのです。あるいは逆に言えば、千里の開きを見つめることによって、出発点における一分や一厘の誤りを見抜くことができるのです。

正確に平行ではなく、肉眼ではほとんど気づかない1度か2度の僅かな角度でズレている2本の線があると仮定しましょう。これらの線を1インチ長く延ばせば、それらの間の距離は明らかに大きくなります。これらの線が地球の果てまで延長されたなら、出発点から何万マイルも離れた場所での距離が、起点で形成された誤りの存在を証明することになります。

さて、このルールをいわゆる「聖なる笑い」に適用してみましょう。人々はどのようにしてこの笑いを得るのでしょうか。彼らはどのような手順に従い、どのような条件を満たさなければならないのでしょうか。

それは単に「笑うことを求める」ことにほかなりません。「笑うこと」というたった一つの思考が存在するだけです。彼らは聖霊に満たされることを求めているのでしょうか。彼らの唇は確かに「おお神よ、あなたの御霊で私を満たしてください」といった言葉を発するかもしれません。しかし、それは単なる手続きにすぎません。御霊に満たされることを求める目的は、そのように満たされることとは別のところにあります。彼らが口でそう言おうとも、彼らの心の望みは別のところにあるのです。

彼らの目的は何でしょうか。彼らは「笑いたい」「喜びたい」のです。彼らは「おお神よ、あなたに御霊で満たされることを求めます。私は外側の感覚など気にしません。あなたが御霊で私を満たしてくださるなら、感覚があろうとなかろうと満足です」とは祈りません。神の御霊で満たされることを望む者は誰でも、そのような態度をとるべきです。

本当の話をさせてください。ある学生が悔い改め、主を信じました。彼には、この「聖なる笑い」に満たされていると公言し、過剰に喜んでいるように見える同級生がいました。この同級生は、朝から晩まで悲しみもなく自分がいかに喜んでいるかを語り、この体験がいかに霊的成長に役立つかを述べて、彼に聖霊の満たしを求めるよう強く勧めました。

同級生が信者であり、すでにこの体験の所有者であることを考慮して、最近救われたその学生は、自分もそれを持つべきだと考えました。そこで彼は神に熱心に祈り始めました。彼は食欲を失い、勉強を疎かにするほどに、神にそれを与えてくださるよう祈り続けました。

後に彼は教師のところに行き、自分のために祈ってくれるよう頼みました。学生自身も熱心に神に哀願し、神が今夜それを与えてくださらないなら祈りから立ち上がらないと誓いました。彼は祈り続け、突然跳びあがって自分がいかに喜んでいるかを叫びました。彼は笑い、笑いました。笑えば笑うほど、益々面白く感じられました。彼は笑い、踊り、叫びました。

教師は彼が正気を失ったのだと思いました。医師のように振る舞い、教師は彼を捕まえて「兄弟、静かにしなさい。混乱した行動をしてはいけない」と言いました。しかし、咎められれば咎められるほど、彼の反応は激しくなりました。もしこれが本当に神から出たものであるなら聖霊を汚してしまうかもしれないと恐れ、教師はそれ以上何も言えなくなりました。

最終的に学生は家に帰り、翌日には良くなりました。これは「たましいの力の偉大な解放」以外の何物でもありませんでした。なぜなら、彼はその解放のための条件を満たしていたからです。

例6:幻と夢

今日、教会の中の多くの人々が幻や夢を追い求めています。もし誰かが私にそれらを信じるかと尋ねるなら、私は「幻や夢に反対はしない」と答えるでしょう。私自身もそれらの経験がいくつかあります。時にそれらは役に立つことがあります。

しかし、私はそれらの「源」にあなたの注意を向けたいのです。それらはどこから来るのでしょうか。それらは神から出たものでしょうか、それとも神から出ないものでしょうか。

集会において誰かが幻を見た話をし始め、それが幻の雪崩を引き起こし、会衆のほぼ全員が幻を見たり夢を見たりしたと証しするようになることが、いかに頻繁にあることでしょう。

幻について聞くことで、人々は自分自身で祈り始め、神に同じ体験を与えてくださるよう求めます。彼らは何夜も断食して祈るでしょう。もし幻が与えられないなら、次第に彼らの体は弱まり、心は空白になり、意志はすべての抵抗力を失います。そして彼らは「幻や夢」と呼ばれるものを受け取るのです。

疑いなく彼らは何かを受け取りますが、彼らはどのようにしてこれらの幻や夢を受け取るのでしょうか。これらは神から出たものでしょうか。

心を空白にさせ、意志を受動的にさせるといったそのような耽溺は、断固として聖書の教えに反するものです。彼らは単に自分自身に催眠術をかけているだけです。

ある人々は夢を見る傾向があり、可笑しな方法ではあっても、自分の夢を解釈することができるように見えます。

私には容易に夢を見ることができるように見える医師の友人がいました。彼に会うたびに、私は新しい夢とその解釈について聞かされたものでした。彼はほぼ毎晩夢を見ており、一夜に3つも4つもの夢を見ることが頻繁にありました。

なぜこうだったのでしょうか。神が彼に夢を与えることをそれほど望んでおられたからでしょうか。私にはその理由が分かります。彼は普段から「空想家(デイドリーマー)」だったため、夜にも夢を見たのです。これほど賢い医師が、これほど混乱した思考を持っているのを見るのは驚くべきことでした。彼の心は朝から晩まで絶えず絵を描いていました。彼には自分の思考をコントロールする方法がなかったのです。彼が夜に見た夢は、彼が昼間に考えていたことでした。

この理由から、私は彼に対して最も直接的に懇願しました。これらの多くの夢に抵抗しない限り、最終的には欺かれ、霊的生活は成長し得ないだろうと。神に感謝します、彼は後に良くなりました。

このことから、多くの夢は神から出たものではなく、「散漫な心(マインド)の影響」であることが分かります。

源を調べよ

ある者は幻を求め、ある者は光や炎を見たと言い、ある者は夢を見たと発表します。彼らの証しに続いて、他の多くの人々も自分たちも同様の体験をしたと主張し始めます。

私はこれらの事柄に反対しているわけではありませんが、それらの起源(オリジン)を探求します。それらは「たましい」から来ているのでしょうか、それとも「霊」から来ているのでしょうか。

「霊においてなされたすべてのことは、たましいも複製することができる」ということを心に留めておきましょう。しかし、たましいによって模倣されたものはすべて、霊の偽造以外の何物にも役立ちません。

これらの現象の源を調べないなら、私たちは容易に欺かれてしまいます。ここでの最も重要なポイントは、これらの事柄を否定することではなく、代わりにそれらを調べて、それらが「たましい」から生じているのか、あるいは「霊」から生じているのかを見極めることです。

効果における違い

御霊の働きと、たましいの働きとの間には、効果においてどのような違いがあるでしょうか。これは、何が御霊のものであり、何がたましいのものであるかを区別する上での主要な手がかりを与えてくれます。

「『最初の人間アダムは生きた者となった』と書いてある通りです。最後のアダムは、命を与える霊となりました。」(1コリント 15:45)

パウロはここで、最初のアダムが生きた者(生きたたましい)となったと言っています。たましいは生きており、それ自身の命を持っています。したがって、それは人間があらゆる種類のことを行うことを可能にします。これはアダムが当時持っていた立場を指しています。

それから使徒は続けて、「最後のアダムは、命を与える霊となった」と言います。この言葉は細心の注意を払うに値します。それは最も貴重で重要な意味を持っています。御霊の働きとたましいの働きとの間の効果の違いは、まさにここに明確に与えられています。

 

たましいはそれ自体が生きており、それ自体のうちに命を持っています。

しかし、霊は他の人々に命を与え、彼らを生かすことができます。

たましいはそれ自体が生きていますが、他の者を生かすことはできません。

しかし霊は、それ自体が生きているだけでなく、他の者をも生かすことができます。

御霊のみが人々を活気づけて生かすことができるのです。

 

たましいは、それがどれほど強力であれ、他の者に命を分かち与えることはできません。 「イエスは言われた。『命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない』」(ヨハネ 6:63)。

私たちはこれら2つの働きを非常に明確に区別しなければなりません。なぜなら、これは極めて重要だからです。この点において混乱しているなら、誰も満足のいく働きをすることはできません。

もう一度繰り返させてください。たましいはそれ自体は確かに生きていますが、他の者を生かすことはできません。 一方で霊は、それ自体が生きているだけでなく、さらに他の者にも命を与えます。

私がこれほど強調して「私たちは自らのたましいの力を横に置かなければならない」と述べるのは、まさにこのためです。たましいから出るものはすべて何の役にも立ちません。私たちは単なる用語の議論をしているのではありません。なぜなら、これはあまりにも偉大な原則だからです。

たましいは生きているものの、他の者を生かす方法を持っていません。したがって、人々を助ける際、私たちは単に彼らの「心(知性)」を助けるのではなく、彼らの「存在の深み(霊)」を目指すべきです。サイキック・フォース(精神的力)に従って働いてはなりません。なぜなら、それは誰一人として救うことも、益することもできないからです。

私たちはなんと注意深くならなければならないことでしょう。たましいから出てくるものが何であれ、それを否定しなければなりません。なぜなら、それは人々を助けることができないだけでなく、神の働きを妨げるからです。それは神を怒らせるだけでなく、神からその栄光を奪うことにもなります。

たましいの力で働く危険性

御霊の働きと、たましいの働きとの違いを示すために、いくつかの身近な例を挙げてみましょう(奇跡的なケースについてはすでに触れましたので、ここでは言及しません)。

今日の教会において、サイキック(心理的・精神的)な手段によって働くことがきわめて一般的になっていると言えるでしょう。人々を惹きつけるために、どれほど多くの心理学的手法が説教集会で用いられていることでしょうか。また聴衆を刺激するために、どれほど多くのサイキックな方法が信者の集会で使われていることでしょうか。用いられている方法を観察することによって、どのような働きがなされているかを判断することができます。

率直に言わせていただければ、多くの説教は人々の「たましい」を助けることはできても、「霊」を助けることはできません。そのようなメッセージは単にたましいから語られているため、人間のたましいにしか届かず、少しばかりの知的な知識を与えることしかできないのです。私たちはそのような方法で労苦すべきではありません。なぜなら、そのような働きは人間の霊に決して浸透しないからです。

多くのリバイバル集会はどのように運営されているでしょうか。私は信者がリバイバルされることに反対しているわけではありません。この点は明確にしておかなければなりません。私はただ、今日のそのような集会の運営方法が「御霊」によるものなのかどうかを問うているのです。

多くのリバイバル集会において、まず人々を温め、興奮させるような「雰囲気」が作り出されているのは事実ではないでしょうか。聴衆を温めるためにコーラスが何度も繰り返され、証しを促すためにいくつかの感動的な話が語られます。これらは「手法」や「戦術」であって、聖霊の力ではありません。

雰囲気がほぼ完全に加熱すると、説教者が立ち上がって説教をします。彼が説教している間、彼はその日自分がどのような結果を得るかをすでに承知しています。彼はさまざまな戦略を用意しており、巧みな取り回しによって、特定のクラスの人々が震え上がり、別のクラスの人々が泣き、告白や決心(献身)がなされることを予期できるのです。

この種のリバイバルは、1年か2年ごとに更新される必要があります。なぜなら、以前に与えられた「薬」の効果が切れ、古い状態に戻ってしまうからです。時に、以前のリバイバルの効果はわずか数週間や数ヶ月で消え去ってしまうことさえあります。

リバイバルの始まりにおいては、確かに大きな熱意と自発的な意志が示されます。しかし、しばらくするとすべてが終わってしまいます。これは「命の欠如」以外の何物でもありません。多くの信者の物語が記録されるとしたら、それは「落ち込みの後のリバイバル、そしてリバイバルの後の落ち込み」という歴史で構成されることになるでしょう。最初のリバイバルで用いた刺激剤は、二度目のリバイバルで効果を発揮させるためには投与量を増やさなければなりません。二度目に採用される方法は、より感情的で、より刺激的なものでなければならなくなります。

したがって、私はこの種の方法を「霊的モルヒネの注射」と表現するのが最も適切であると提案します。それは何度も繰り返し注射される必要があるのです。

たましいが「それ自体でしか生きられない」ことは明白です。たましいには他の者を生かす力がありません。たとえ人々が涙を流し、決心をし、熱心になったとしても、たましいの力を通して働くことは、実質的に言えば何の価値もありません。

霊は命を与える

「新生(生まれ変わり)」とは何でしょうか。それは主の復活の命を受け取ることです。

なぜ聖書は、私たちが主の誕生によってではなく、「主の復活によって新生した」と述べているのでしょうか。なぜなら、受け取った新しい命はベツレヘムの命以上のものであるからです。ベツレヘムで生まれたあの命は、まだ死ぬべき命でした。しかし、復活の命は決して死ぬことがありません。 「わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、永遠に生きている」(黙示録 1:17–18)。

復活の命は決して死ぬことがなく、永遠に生きます。新しく生まれた命は肉の中にあり、したがって死ぬ可能性があります。私たちが新生において受け取るのは、永遠に生き、決して死ぬことのない命です。

「復活」とは何でしょうか。ここにひとつの死体が横たわっていると仮定しましょう。どれほどのエネルギーを投入し、熱を用いようとも、人間の手段によって死者を蘇らせることは絶対不可能です。死者を生き返らせる唯一の方法は、その中に神の命を入れることです。死者を活気づけるこの命こそが復活の命であり、これこそが復活です。

死よりも悪い環境があるでしょうか。死よりも冷たいものがあるでしょうか。死体はますます傷み、腐敗していきます。しかし、復活の命が注ぎ込まれるとき、死は命によって呑み込まれます。その結果、新生した人は死に属するあらゆるものに抵抗することができ、すべての死んだものを脱ぎ捨てることができるのです。

以下は、復活を説明するために時に用いられる例えです。 昔、復活を信じない男がいました。彼は無神論者のサークルの中で非常に重要な人物でした。彼が亡くなった後、彼の墓石の碑銘には「破壊不能の墓」と刻まれました。その墓は大理石で作られていました。

ところが驚くべきことに、ある日その巨大な大理石の棺が割れて開いてしまったのです。建設の最中に、たまたますぐ近くにドングリの実が石の隙間に落ちていたのでした。それは徐々に大きなオークの木へと成長し、最終的に墓を広く引き裂いて開いたのです。

木には「命」があります。それゆえ、それは死の場所を引き裂いて開くことができるのです。命だけが死に打ち勝つことができます。これこそが新生であり、これこそが復活です。

霊は活気づけます。霊だけが命を授けることができます。これこそが私たちが注目すべきことです。しかし残念ながら、現代には御霊の「代用品」があまりにも多すぎます。

たましいを処理しなければならない

神はご自身の力によってのみ働かれます。したがって、私たちは神のために働くたびに、自分のたましいの命を縛っていただくよう神に求めなければなりません。

まず自分自身を処理し、自分自身を脇に置く必要があります。私たちは自分の才能や長所を脇に置き、神にこれらを縛っていただくよう求めるべきです。私たちは神にこう言うべきです。 「おお神よ、あなたに働いていただきたいのです。私は自分の才能や自分の力に頼りたくありません。あなたご自身が仕事をなさるよう求めます。私自身では何もできませんから。」

今日、多くの奉仕者たちは神の力が不十分であると考え、自らの働きを付け加えます。そのような基盤の上では、益がないばかりか有害でもあります。

聖霊の働きは、人間の手の介入を決して許容しないということを心に留めておいてください。

私はよく「神の働きにおいて、人間は命がなく何もすることができない『紙人形』のようであるべきだ」と言います。人間には、働くことを可能にする命の流入が必要です。

自分自身の中に全く力を持たない「紙人形」のようになるまで、自分自身を否定しようではありませんか。すべての力は上から来なければなりません。用いられるすべての方法もまた、上から来なければなりません。

私たちは、御霊だけが活気づけることを知っています。神は御霊によって働かれます。もし私たちが神に働いていただきたいと望むなら、自分のたましいの命を縛っていただくよう神に求めなければなりません。さもなければ、神は自由に働くことができません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ねば、多くの実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至らせます。」(ヨハネ 12:24–25)

ここでのギリシャ語の「いのち(life)」という言葉は、たましい(psyche)を指しています。これは、自らの「たましいの命」を保とうと望む者は誰でもそれを失い、この世で自らのたましいの命を失う者は、それを永遠の命に至るまで保つことになる、という意味です。

これは主の独特な命令です。主は前言の意味(「一粒の麦が地に落ちて死ななければ…」)を説明するために、このような言葉で語っておられます。

まず「死ぬこと」、そうして初めて何かが起こります。もし信者が自らのたましいの命を脇に置かないなら、御霊は決して働くことができず、したがって他の人々を益することもできません。

主のためにより深い働きを行うためには、私たちは「たましい」を実質的に処理しなければなりません。たましいの命は失われる必要があります。

一粒の麦は素晴らしく、その金色は非常に美しく見えます。しかし、もしそれがテーブルの上に置かれたなら、それは一粒のままであり、100年後であっても、決してもう一粒を付け加えることはありません。

私たちのたましいの力はすべて、地に落ちていないあの一粒の麦のようなものです。それは決して実を結ぶことができません。

私たちは完全な真剣さをもってこの問題を見つめようではありませんか。今あなたが所有している、聖く欠点のないあの「復活の命」は、多くの実を結んでいるでしょうか。

ある人たちは「なぜ自分は人々を助けたり救ったりすることができないのか」と尋ねます。ある人たちは「なぜ自分には働きにおいて力がないのか」と問います。多くの人が「自分には力がない」と告白します。

しかし、私は次のように答えるでしょう — 彼らの「自分の力」があまりにも大きすぎるため、働く力がないのだと。彼らはすでに自分自身の中に大きな力を持っているため、神が働く機会がどこにあるでしょうか。

自分自身の知恵、方法、力、あるいは自然な能力を用いることによって、信者たちは神の力の現れを遮断しています。多くの奇跡的な現象は、神によってではなく「ソウル・フォース(たましいの力)」によって行われています。

神の力の代わりに自分たちの自然な能力を置き換えるなら、彼らはどうして善く、かつ永続する結果を期待できるでしょうか。

多くのリバイバル集会はその瞬間には非常に成功しているように見えるかもしれませんが、その後の効果においてはゼロに落ち込んでしまいます。疑いなく、いくつかのリバイバルは人々を助けますが、私がここで言及しているのは「人間の方法を通してなされた働き」のことです。

より良く、より深い働きを目指す者は「力」について語るべきではない、と私は最も厳かに宣言させていただきます。私たちの責任は「地に落ちて死ぬこと」です。もし私たちが死ぬならば、実を結ぶことはきわめて自然なことです。

自分の命を失う者(すなわち、この世で自分の命を憎む者)について、主は何と言っておられるでしょうか。彼は「それを永遠の命に至るまで保つ」のです。

それはあたかも、私には雄弁さがあるものの、それを使おうとしないかのようです。私の心は雄弁さに置かれておらず、それを自分の働く道具として使うつもりはありません。私は自分の雄弁さを失い、それに頼ることを拒絶します。

すると、その結果はどうなるでしょうか。私は「命」を得るのです。すなわち、私は命において他の人々を助けることができるようになるのです。

管理能力やその他の能力を持っていることについても同様ですが、その使用を否定し、代わりに神の御前で待ち望みます。このようにして、私は人々に本当の益をもたらすのです。

ですから、私たちは多くの実を結ぶことができるように、自分自身の力を使わないことを学ぼうではありませんか。

力は「復活の領域(グラウンド)」において獲得されるべきです。復活とは、死を越えて生きることです。私たちに必要なのは、より大きな力ではなく、より深い死です。私たちはあらゆる自然の力に抵抗しなければなりません。

自分のたましいの命を失っていない者は、力について何も知りません。しかし、死を通り抜けた者は命を所有しています。一粒の麦が地に落ちて死ぬように自らのたましいの命を失う者は誰でも、神の命において成長し、多くの実を結ぶのです。

私は、多くの人々が豊かで力強すぎるために、神が働くための余地(グラウンド)を与えていないと信じます。

私は頻繁に「無力で望みがない(Helpless and hopeless)」という言葉を思い起こします。私は神に告げなければなりません — 「私があるものすべてはあなたのものです。私はあなたから離れて自分自身には何もありません。私は真に無力であり、望みがありません」と。

私たちは神に対して、神なしでは息を吸うことも吐くこともできないかのような依存的な態度を持つ必要があります。このようにして、私たちの力も聖潔もすべて神から来るものであることを見出すでしょう。私たちが持っているものはすべて神からのものです。

おお、神は私たちが希望もなく無力な状態でご自身のもとに来るのを見ることをどれほど喜ばれることでしょう。

ある兄弟がかつて私に「聖霊の働きの条件とは何ですか」と尋ねたので、私は「聖霊はたましいの力の助けを決して借りません。聖霊はまず、私たちが自分自身では何もできない場所へと私たちを連れて行かなければならないのです」と答えました。

奇跡的なものであれ一般的なものであれ、自らの自然なセルフ(自分)から出てくるすべてのものを否定することを学ぼうではありませんか。神から来ないものは何であれ否定しなければなりません。そうすれば神は、ご自身が成し遂げようと意図されたことを達成するために、その力を表してくださるでしょう。

主の模範

「イエスは彼らに答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見る以外には、自分からは何も行うことができません。父がなさることであれば、子も同様に行うのです。』」(ヨハネ 5:19)

「子は、自分からは何も行うことができません」— 言い換えれば、主が行われたすべてのことのうち、主が自分自身で行われたものは単一つとしてないということです。

これこそが私たちの主の絶えざる態度でした。主はご自身の力やご自身の考えに従って何かを行うことはありませんでした。ご自身から出てくるものは何であれ、主は行うことを否定されたのです。

しかし、主のたましいに何か悪いところがあったでしょうか。罪の痕跡すら全くない主のたましいの力は、十分に使えるものではなかったでしょうか。主が自らのたましいの力を用いたとしても、それは罪にはならなかったはずです。

それにもかかわらず、主は「子は自分からは何も行うことができません」と断言しておられます。これほど聖く完璧な主でさえご自身の力を使うことを拒まれたとするならば、私たちはどうでしょうか。

主はこれほど完璧であるにもかかわらず、その生涯全体は「神に無力で望みなく依存する生涯」でした。主はすべてのことにおいて御父の御心を行うためにこの世に来られたのです。

塵(ちり)のひと粒にすぎない私たちは、真に何ものでもありません。私たちは精神的力(サイキック・フォース)を横に置き、たましいから出てくるものは何であれ否定しなければなりません。そうして初めて、私たちは霊的な力で働き、多くの実を結ぶことができるのです。

神が私たちを祝福してくださいますように。

(Gemini翻訳)