鳴鳩雑記

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続・「自分発の信仰」なのか、「キリストから賦与された信仰」なのか。

先の記事を掲載したところ、敬愛する兄弟がメールをくださった。

黙示録2:13の「信仰」について、ギリシャ語の翻訳の仕方を教えてくださった。

ご紹介しつつ、私見を書き置こうと思う。

 

メールの内容は、下記。

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黙示録2:13の「ピスティン・モウ」のモウは、確かに属格(訳:~の)。

 

ただ属格には様々な機能がある。
http://www.bcbsr.com/greek/gcase.html#Genitive
上記のサイトによれば、20種類の機能がある。

その中の一つが、目的格属格。
一例がマタイ12:31の「プニューマトス・ブラスフェミーア」。

@マタイ12:31 岩波翻訳委員会訳
このゆえに、私はお前たちに言う、人間たちには、すべての罪も冒瀆も赦されるであろう。しかし霊〔へ〕の冒瀆(プニューマトス・ブラスフェミーア)はゆるされないであろう。

この箇所の「プニューマトス」は属格。
「御霊の冒涜」、「御霊から賦与された冒涜」、「御霊が犯した冒涜」とも訳せる。

しかしながら、そのような訳はしない。


同様に、黙示録2:13も「わたしの信仰」ではなく、「わたし(キリスト)に対する(あなたの)信仰」とするべき。

NETバイブルというアカデミックな訳でが、やはり「モウが目的格的に機能している」と注釈がついている。
 
http://classic.net.bible.org/bible.php?book=Rev&chapter=2#n45
Grk “the faith of me” (τὴν πίστιν μου, thn pistin mou) with the genitive “of me” (μου) functioning objectively.

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との事。

 

私が手持ちの邦訳聖書で確認したところ、新改訳、新共同訳、口語訳、岩波訳、エマオ訳、フランシスコ会訳が、「私への信仰」という旨で訳しているのは、上の理由なのでしょう。

 

残念ながら、なるほど!といえるほど、私には理解できておりません…。

 

 

さて。

「わたしへの信仰なのか」、「わたしの信仰なのか」。

「自分発の信仰なのか」、それとも「賦与された信仰」なのか。

 

極私的には、「どっちでもいい」。

いや、そうではない。

「どちらもいい!」と思うところです。

 

なんでそう思うのかといえば…。

信仰とはなんぞや?と思うからです。

信仰というものは、「霊」の領域なのか、「魂」の領域なのか、どっちでしょう?

 

信仰が「霊」の領域であれば、「霊」の機能である「直覚」に基づくもの、そうであれば「賦与された信仰」でしょう。

 

信仰が「魂」の領域であれば、人の「思考」と「意志」による人の選択であり、それは「自分発の信仰」であるといえるでしょう。

 

また「霊」で受けたものが「魂」に反映される、浸透する、と考えるのであれば…。

どちらの理解も間違いではない、と思う。

 

私自身は「ピンときちゃった!」という直感的な性質の、ペテンコステヘンテコステペンテコステなので、「賦与された信仰」の方が、好ましい。

また「キリストの霊」を強調したい私にとっては、「賦与された信仰」=「内住のキリスト」なので、実に好ましいのだ。

しかしながら、黙示録2:13の状況を想定すれば「私への信仰」が適訳とも思う。

 

なので、やはり「どちらもいい!」と思う。

 

 

はい、今日の結論。

 

やはり、聖書は複数の訳を読むべき、ということ。

例えば、空手の正拳突き、ボクシングの右ストレート、日本拳法の直突き、それぞれ違いはあるけれども、どれも有効な技であることは、間違いない。

同様に、翻訳はどれも翻訳者の聖書理解が反映される以上、複数読んで、自分が腑に落ちる翻訳を得るべきと思うところです。

 

蛇足。

私は、幸せだなー!と思う。

幸いだなあ、ネットでキリストの体を味わう者たち!

終わりの時代の祝福は君たちのものだ!

と感じるところ。

 

ネットでキリスト者と出会い、つながることの益と喜び。

動画を配信して、情報をくださるKFCのルークさん。

メールをくださり教えてくださる、敬愛する兄弟。

本当に、ありがたい。