鳴鳩雑記

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キリストにある友、Mさんへ

@ヘブル4:9ー11 協共訳
9:したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。
10:実際、神の安息に入った者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだのです。
11:だから、私たちはこの安息に入るように努めようではありませんか。さもなければ、同じ不従順の例に倣って落伍する者が出るかもしれません。

 

自分の業を終えて休む、と言いながら...。

安息に入るように努めようではありませんか、って...。

 

休むのか、努めるのか、どっちじゃなんじゃゴルァ~!はっきり白黒つけんかい、このハゲェ!

という気持ちになりますやね、ごもっともなことでございます。

 

 

ヘブル書は、エルサレム陥落以前、ヘロデ神殿が機能している時代の、ユダヤ人クリスチャンへの書簡とされています。

詳しくは、ご自身でお調べになってくださいませ。

 

その目的は、イエス・キリストを「救い主」として認め受け入れクリスチャンになったのに、ユダヤ教に戻ろうとして「弟子」として後退するクリスチャンへの、指導、訓戒、警告、です。

 

そして3章からは、大祭司としてのイエス・キリストを提示しています。

その展開で3章7節から、詩編を引用しています。

 

詩編95:7ー11 聖書協会・共同訳 詩編 [95]編
詩 95:7 まことに、主こそ我らの神。/私たちはその牧場の民、御手の羊。/あなたがたは今日、主の声を聞きなさい。
詩 95:8 「メリバにいた時のように/マサの荒れ野にいた日のように/心をかたくなにしてはならない。
詩 95:9 あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。/私の業を見ていながら、私を試した。
詩 95:10 四十年の間、私はその世代をいとい/そして言った。/『彼らは心の迷える民/私の道を知らない。』
詩 95:11 私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは私の憩いに入れない』と。」

 

@ヘブル3:7ー11 聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙 [3]章
ヘブ 3:7 ですから、聖霊がこう言われるとおりです。/「今日、あなたがたが神の声を聞くなら
ヘブ 3:8 荒れ野で試練を受けた頃/神に背いた時のように/心をかたくなにしてはならない。
ヘブ 3:9-10 荒れ野であなたがたの先祖は/私を試み、試し/四十年の間私の業を見た。/だから、私はその時代に対して/憤ってこう言った。/『彼らはいつも心が迷っており/私の道を知らなかった。』
ヘブ 3:11 私は怒り、誓いを立てた。/『彼らは決して私の安息に入ることはない。』」

 

第一義的には、ユダヤ教に戻るのではなく、イエス・キリストに留まる、ということを教えています。

 

@ヘブル3:14ー19 

聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙 [3]章
ヘブ 3:14 私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となるのです。
ヘブ 3:15 それについては、こう言われています。/「今日、あなたがたが神の声を聞くなら/神に背いた時のように/心をかたくなにしてはならない。」
ヘブ 3:16 一体誰が、聞いたのに背いたのか。モーセに率いられてエジプトを出たすべての者ではなかったか。
ヘブ 3:17 一体誰に対して、神は四十年の間憤られたのか。罪を犯して、屍を荒れ野にさらした者にではなかったか。

ヘブ 3:18 一体誰に対して、ご自分の安息に入らせないと誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。
ヘブ 3:19 こうして、彼らが安息に入ることができなかったのは、不信仰のせいであったことが分かります。

 

第一義的には、出エジプトしつつも「約束の地」に入れなかったユダヤ人の歴史に照らし合わせて、当時のヘブル人クリスチャンがキリストを信じたまま留まり、その「約束」を得るように勧めています。

この安息は、カナンの地=約束の地、に対応して、やがて来る神の王国である「千年王国」と理解することができます。

 

つまり、イエス・キリストに留まり、ユダヤ教に後退することなく、いずれくるメシア王国に入るんだ、という内容です。

 

そして歴史的には、ユダヤ人クリスチャンは「山に逃げよ」というイエスの言葉に従い、ローマのタイタス率いるエルサレム包囲網が一時的に解かれた際に、エルサレムを離れ、エルサレム陥落の際にも、ユダヤ人クリスチャンは犠牲にならなかった、ということです。

 

 

ここから、二義的なもの、いわゆる「適用」です。

 

@ヘブル4:10 聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙 [4]章
ヘブ 4:10 実際、神の安息に入った者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだのです。

 

神は創造の業を七日目に休まれました。

それに倣い、キリスト者は、自分の業、アダム属の生き方、肉の働きを棄てよう、ということになります。

 

 

ヘブル書の読者は、新約聖書を知りません。

彼らの聖書は、ヘブル語聖書、70人訳聖書、いずれも僕たちの知るところの「旧約聖書」です。

 

現代のキリスト者は、新約聖書を持っています。

その制定に、聖霊の働きがあり、神の主権によるものだと、認めています。

 

ですので、パウロさんの言葉が、現代にも伝わっています。

 

@エペソ1:3ー4

聖書協会・共同訳 エフェソの信徒への手紙 [1]章
エフェ 1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、
エフェ 1:4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。

 

すでに、祝福されている、選ばれている、そう書いてあります。

 

@エペソ2:2ー7

聖書協会・共同訳 エフェソの信徒への手紙 [2]章
エフェ 2:2 かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。
エフェ 2:3 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。
エフェ 2:4 しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、
エフェ 2:5 過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、
エフェ 2:6 キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。
エフェ 2:7 それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした。

 

キリストと共に生かした、救われた、天上の座に着かせた、そう書いてあります。

 

祝福された、選ばれた、生かした、救われた、天上の座に着かせた、これらはアオリスト時制という「決定的過去」で書かれています。

過去にあった一度きりの事実、ということです。

 

ですが。

 

多くの方が、祝福された、選ばれた、生かした、救われた、天上の座に着かせた、これらを事実と認めていません。

 

祝福された存在。

創造主の計画の内にある存在。

復活の領域に生かされている存在。

救いを得ている存在。

天上の座についている存在。

 

これらを、私の事実、と認めることが、新約の聖徒であるキリスト者の生き方です。

そこには、安息が伴います。

 

@マタイ11:25-29

聖書協会・共同訳 マタイによる福音書 [11]章
マタ 11:25 その時、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。
マタ 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
マタ 11:27 すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。
マタ 11:28 すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
マタ 11:29 私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。
マタ 11:30 私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

 

27節

「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。」

 

ヨハネ17:3

聖書協会・共同訳 ヨハネによる福音書 [17]章
ヨハ 17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 

永遠のいのちを得た結果、魂の喜びを得ます。

 

@Ⅰペテロ

聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 一 [1]章
1ペト 1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。
1ペト 1:9 それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。

 

イエス・キリストにある魂の安らぎ、それが安息です。

 

 

 

ヘブル4:9-11に戻ります。

 

@ヘブル4:9ー11 協共訳
9:したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。
10:実際、神の安息に入った者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだのです。
11:だから、私たちはこの安息に入るように努めようではありませんか。さもなければ、同じ不従順の例に倣って落伍する者が出るかもしれません。

 

イエス・キリストにある魂の安らぎ、安息。

それを妨げるものを、棄て去り、それを活かすものを、取り込む、それが「この安息に入るように努めよう」になります。

 

霊の救いを得たのち、魂の救いを得たキリスト者に、ペテロさんは続けて教えています。

 

@Ⅰペテロ2:2

聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 一 [2]章
1ペト 2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。

 

ここの「救われるように」は、魂の救いの拡大、増殖、です。

 

@Ⅱペテロ1:5ー8

聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 二 [1]章
2ペト 1:5 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、
2ペト 1:6 知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
2ペト 1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
2ペト 1:8 これらのものが備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、怠惰な者、実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。

 

 

パウロさんは、肉と霊の対比というかたちで「肉を情欲と欲望と共に十字架につけた」という事実に生きるように教えています。

 

@ガラテヤ5:16ー25

聖書協会・共同訳 ガラテヤの信徒への手紙 [5]章
ガラ 5:16 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
ガラ 5:17 肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
ガラ 5:18 霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
ガラ 5:19 肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、
ガラ 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、
ガラ 5:21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
ガラ 5:22 これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
ガラ 5:23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
ガラ 5:24 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。
ガラ 5:25 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。

 

 

 

人は、キリストに出会う前に培った経験による価値観、基準、常識、理想を、持っています。

肉の行いを、良いもの、楽しいもの、としていました。

もしくは肉の行いを忌避しつつも、それに束縛されていました。

 

それらを棄てる、明け渡す、ということは、安息に入るための務め、です。

 

 

ヤコブ1:21

聖書協会・共同訳 ヤコブの手紙 [1]章
ヤコ 1:21 それゆえ、あらゆる汚れや甚だしい悪を捨て去り、植え付けられた御言葉を謙虚に受け入れなさい。御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

 

 

ながくなりました。

よい一日を。