鳴鳩雑記

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先生に思う

以前に、もういいよ、という心情で書いたけれど。

先生と呼ばれてはいけない、ってさ。 - 鳴鳩雑記

 

やはり、大事な事なので。

 

@マタイ伝23:6-10

【新改訳2017】
23:6 宴会では上座を、会堂では上席を好み、
23:7 広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

【聖書協会共同訳】
マタ 23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
マタ 23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
マタ 23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。
マタ 23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
マタ 23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

 

 

僕は日本人であり、日本語で思考し、日本語で会話をし、日本語訳の聖書を用いる。

日本語訳の聖書が、あまりよろしくない、ということはわかる。

けれども、すべて原語から考えて、カタカナ言葉を使う、というのは、借り物のような、わかったふり、見てくれを装う、そんな感じなので、僕には好まない。

それができる方々から、学ばせていただき、なんとかそれを日本語で伝えたい。

 

で、口語訳、新改訳3版、新共同訳、他、ほとんどの日本語訳聖書が、「先生と呼ばれちゃダメ」と訳されているわけで。

それを使って、説教、メッセを使いつつ、先生と呼ばれてきたのは、日本のキリスト教会。

 

日本語訳聖書を、神の言葉として引用してメッセしつつ、「先生」と呼ばれ、「師」を肩書にする、矛盾。

 

数年前に出た、新改訳2017でも、恊共訳でも、やはり「先生」と訳されている。

キリスト教界の現状を見る限り、「ラビ」と訳した方がよろしいのでは?と思うのだけれども、「先生」と訳している。

 

これって翻訳者の良心なのかな。

 

でね。

原語のラビの持っていた権威を踏まえると、日本語の先生という敬称では、意味が全く違う、だから先生と呼ばれてもいいんだ、と仰せになる。

また、先生と呼ぶのは、日本の文化的に間違っていない、とそれを正当化する。

 

なるほど、するってえとなにかい、キリスト教会ってぇものはよ、日本の文化で運営されるもの、ってことなんだね?って言いたくなります。

 

それだと、エクレシア、世から召し出されたもの、ではないよね。

キリスト教会、エクレシアは、天の御国の文化、で運営されるものではないのかな?

 

エスは、天の御国は近づいた、と宣教されたわけ。

原意としては、神の王国、神の支配、ですよね。

日本人キリスト者は、日本文化の中に、神の国の文化、天の御国の文化を現出させるために、日本に置かれているのではないのかな?

そしてイエスは言う、先生と呼ばれちゃダメだよ、ってね。

 

 

日本文化で運営していると、どうなるか。

世の流れに流され、染まり、塩気を失った泥塩で、人に踏まれる。

大東亜戦争の際に、会堂に神棚造った歴史が、それを証明している。

日本基督教団 - Wikipedia

ホーリネス弾圧事件 - Wikipedia

 

 

@ルカ伝5:37-39

【新改訳2017】
5:37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。
5:38 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。
5:39 まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。

【恊共訳】

ルカ 5:37 また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も駄目になる。
ルカ 5:38 新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。
ルカ 5:39 古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。」

 

新しい葡萄酒は、新しい革袋に。

僕が記憶しているだけでも、25年くらい前から、どっかで誰かが引用している。

新しい革袋、新しい葡萄酒、一義的には、イエスの天の御国運動でしょ?

二義的に、現代にこの言葉を使うのであれば、それは天の御国の文化を実践する事ではないでしょうか?

 

先生と呼ばれることで、権威を保っている、秩序を保てる、とお考えであれば、その権威は、天からのもの、神からのものではないよね。

 

先生と呼ばれるの、やめましょう。

先生とよばせるの、やめましょう。

肩書から「師」の字、外しましょう。

 

そこから、天の御国の文化の現出が始まるでしょう。

 

@ルカ伝16:10

【2017】
16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

【恊共訳】

16:10ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。