鳴鳩雑記

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父性的愛

ヨハネ伝14:7‐10 聖書協会・共同訳
ヨハ 14:6 イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。
ヨハ 14:7 あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知るであろう。いや、今、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのだ。」
ヨハ 14:8 フィリポが、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、
ヨハ 14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。
ヨハ 14:10 私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである。

聖書の提示する神、創造主ヤハウェエロヒムは三位一体。
それは「父・子・聖霊」なる、唯一の存在。

その第一位格は「父」であって、「母」ではない。

父性は、開かれた世界に子供を置こうとし、成長・拡大を促す。
人は、増えて、地に拡がっていくことを、意図されて創造された。

@創世記1:28 聖書協会・共同訳
創 1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」


母性は、閉じた世界に子供を置こうとし、受容を維持する。
それは本質的には良いもの。
されど、それが裏返るとき、「父」の意図をないがしろにする。

@創世記11:4 聖書協会・共同訳
創 11:4 彼らはさらに言った。「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう。そして全地の面に散らされることのないようにしよう。」

創造主である神に、性別はない。
だが、ご自身を男性像になぞらえて、ご自身を現わされた。

その「愛」は、父性に基づく「愛」である。

聖書の「愛」は、ひとつの表現として
「創造の目的にしたがって輝かせる事」といえるだろう。

父なる神は、創造において、言葉を持って、光と闇を分けられた。

同様に、主イエスの宣教も、「区別」また「分離」を求められた。

@マルコ1:15 聖書協会・共同訳
マル 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。
*悔い改め:「思い改め」が適切

当時のイスラエルに対して、選民思想に基づく救済観からの分離を教えた。
現代においては、自己中心な時代の思考、価値観から分離し、キリスト中心の生き方への方向転換、を教えている。

この宣教の言葉によって、イエスに従うものと、従わないものを、分けられた。

それは「区別/分離」を教える愛であり、そこに「聖」が表される。

「聖」とは、原意において「区別/分離」である。

御言葉よる「区別/分離」のないまま、そのまま受け入れる、というのは聖書の提示する「愛」ではない。

聖書は「思い改め」、「方向転換」を命じている。

これは、人間の自己中心の生き方を否定し、神の創造の目的にしたがって、神中心に生きることを選択すること。

これは、言い換えるならば「肉」との分離、その意思決定である。

「肉」=「魂+体」にある「古い人の生存パターン」から分離し、御言葉による生き方を構築していく意思決定が「思い改め」であり「方向転換」であるといえる。

この、人が思い改める、というのは神の正しさ、神の「義」が表されることでもある。

@ルカ9:23
エスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主は、自由意志による選択を求めておられる。

なお、「肉」という「古い人の生存パターン」の生き方からの分離、御言葉による生き方を選択する、その意思決定するのは私だが、実行されるのは私のうちにおられるキリストである。

私の「古い人」は、キリストの十字架死の内にあって死んでいる。

それゆえ、復活の内にあって新しく生きる、これがキリスト者である。

主よ、私にはできません。しかし、神に不可能なことはありません。

主よ、私は死んだ者です。あなたが生きてください。

そう告白する時に、神が働かれる。

なお。

もちろんの話として、「受容」する母性的な「愛」も必要である。

幼い者、傷ついた者、弱いものを受け入れることは必要であり、神はそれを地上に実現するために「エクレシア/召衆」を置かれ、その働きを求めておられる。

神ご自身、女性像の表現でご自身を現わされている。
(ヘブル語:ラーハム=胎児をかわいがるように子宮から広がる思いやり。抱き続ける、血肉を与える、の意味を含む。出エジ33:19など)

父性の「愛」に付随する、追従する形で、母性の愛があらわされることが望ましいだろう。

御言葉を語り、思い改めを促し、キリストの「弟子」として彼のくびきを負い、「新約の祭司」として霊拝し、「光の子」としての歩みを整えていくことが、「宣教」である。

いわゆる「キリスト教の会」の、信徒、信者、教会員、を増やすことではない。

母性の「愛」が先行した「キリスト教の会」は焦点を外しており、新興宗教と同じような「人集め、金集め」に陥りやすい。

それは「塩気のない塩」として、捨てられ踏みつけられる(マタイ5:13)。

@マタイ 28:18~20 聖書協会・共同訳
マタ 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
マタ 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、
マタ 28:20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

*父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け
⇒ 「父と子と聖霊」の名(単数形)の中でバプテスマを授け