鳴鳩雑記

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箱物宗教と第二仲介者

聖書の「長老」は、ひとつの地域に複数人。

 

それは、カトリック、オーソドックス、プロテスタント諸派という差異のない、地域ごとの「エクレシア」における働き。 カトリックの神父やプロテスタントの牧師など、「箱物宗教」の「第二仲介者」とは、別格の存在。

 

 

「箱物宗教」は、ローマ国教化による変質が、現代まで継承されている証。 聖書のエクレシアは、家々でパンを割いていたわけです。

 

「第二仲介者」は、その人を通して、イエス・キリストに通じる存在、いわば祭司職。 新約は、イエス・キリストだけが御父への、唯一の仲介者。

 

「第二仲介者」は、そのキリストの手前に入る存在。 神父や牧師がいないと、日曜礼拝ができない、パン割きができない、バプテスマができない、という現状の在り方がそれを証している。

 

キリスト教の会」ありきの価値観で、聖書を読むのは、的外れ。

聖書の「長老」は、「キリスト教の会」の長老とは、全くの別物。

それは牧師を支える働きではなく、信徒のまとめ役でもありません。

 

三角屋根に十字架がある建物が「教会」で、そこには神父や牧師がいるといった、この世の宗教ありきの思考を棄てませう。

 

出エジプトしたイスラエルが「金の子牛」を慕ったように、これまでの宗教感覚はすぐには抜けないかもしれませんが、だからといって、それでよしとはなりません。

 

出エジプト32:25 協共訳

モーセは、民が勝手な振る舞いをしたこと、また、アロンが民に勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの的になったのを見た。

 

色眼鏡を外して、聖書の提示する「エクレシア」を読み取り、実践していくことが望まれているでせう。

 

できることから、少しづつ。