鳴鳩雑記

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現代の「教会」に思う

聖書的な「教会」って、とっても難しい。

ボクシさんらは、聖書の記述を使って、御言葉を引用して、ご自分の意見を正当化し、地域教会を活性化したい、拡大したい、存続させたい、とお考えになっているでしょう。

 

宗教改革記念日、とか、大切にしてるみたいでね。

でも、宗教は改革しても宗教、なんだよね。

イエス・キリストの福音は、宗教じゃないわけでね。

 

そもそもの話、ローマ帝国の国教化した時点で、「パン種」が入って発酵して、変質しているわけです。

 

家々で集い、パンを裂いて、イエス・キリストを記念していた、初代教会。

それがローマ帝国の国教化により禁止され、礼拝堂と聖職者を持つようになった。

これって、変質でしょ?

 

その変質したものが…やがてオーソドクスとカトリックが分かれ、そのカトリックからプロテスタントが分かれ、プロテスタントは分裂分派が連続しているのが実際。

 

ただ、そうであっても普遍的教会としての「エクレシア」は、そもそも「ひとつ」なので、人の創意工夫による一致運動とか、不要と思います。

エキュメニカルなんぞ、大バビロンへの道筋にしか思えません。

先日、WCCのご主張をチラ見したけど、まんま「世」ですよね。

 

でね。

実際のところ、地域的教会としての「エクレシア」は、聖書の時代にはもう戻れないでしょう。

W・ニーさんが提唱した、地方にひとつの共同体、は残念ながら理想論。

だって、自分のところが正しいと思ってる人が、集っている人を囲い込んでおきたい、と願っているわけだから、実現できません。

 

シントさん囲い込んでおいて、労働力として奉仕して、収入源として献金してもらわないと、ボクシで食ってくこと、難しいですよね。

ボクシで食っていかなくていい、聖書的に教会を建て上げるためにまずは自分がボクシを辞職するって、そう考えるボクシさん、どれくらいいますかね?

 

もちろん、ボクシを辞職するって、宣教の働きを止める、ってことではありません。

一般社会の職業に従事し、これまでどおり宣教の働きをすればよろしいでしょう。

どうせフルタイムのボクシがいても、日本の宣教は大した拡大していないんだから、フルタイムでもパートタイムでも、変わらないでしょ?

 

新約の使徒パウロを、わざとらしく「パウロ先生」と呼ぶくらいなら、彼の宣教活動に倣って、自分の生活の必要のためには、自分で労働すべきだよね。

 

その上で、多くのボクシさんが、自分の聖書理解はこうです、自分はこれが正しいと考えています、いかがですか、よろしければご活用ください、って姿勢であれば…。

いろいろな聖書理解の人たちが、一緒に地域教会の形成ができるかもしれません。