鳴鳩雑記

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「教会」の偶像化 

「教会」の偶像化 2009・7.21バックアップ(日付不明)

 

この日本に生まれたことは、素晴らしい恵みだ。
四季があり、季節の移ろいを五感で味わい、被造物のいのちを認め、新しい気持ちで主の栄光を褒め称えられる。日本に生まれた恵みに感謝。

先日、子供たちを連れて、川原で「からし菜」を取った。マスタードの原料になるこの草、本来は若い芽に熱湯をかけ醤油につけて辛味を味わうのだが、ウチは子供が食べられるようにじっくり湯掻いてしまうので、単なる青菜w


しかし、消費経済に馴らされ、食物は買う物となってしまっている中、近所で自然の食材が入手できるのはありがたい。農業をやりたいという思いが、また戻ってきた...w


引き続き、キリスト教会を名乗る「キリスト教の会」に触れていこうと思う。

まずは、地域教会の偶像化である。
「神に仕える」という聖書の教えを「地域教会に仕える」という、宗教の教えにスリ替えてしまっている、スリ替わってしまっている。


偶像とは、「私はある」という神のほかに「自己存在の基盤を置く対象」を持つことである。ここにいれば、安心。これがあれば、満足。これがあれば、希望を持てる。というような自己の存在を保証し、必要を満たし、願望を満たしてくれる、そう認識するものが偶像である。

モーセ十戒にある第二戒は、「私はある」という永遠であり無限である神を、人の偶像の次元に縮小し限定することを禁止している。
地蔵や仏像などのいわゆるツクリモノは、人の心にある偶像を投影したに過ぎない。偶像の本質は人の心にあるのだ。

ある人は、お金があれば生きていけると考える。これは金銭を偶像化している。ある人は、恋愛を人生の目的にしている。これは情欲を偶像化している。ある人はスポーツや芸術。ある人は地位や肩書き。ある人は家や車。ある人は伴侶や親や子供といった家族。ある人は地域教会、である。


地域教会に足しげく通い、熱心に活動し、牧師や他の信徒に認められ、充足感を得る活動が出来、自尊心を満足させることができる「教会生活」は「偶像」に成りやすい。 地域教会の活動の中心的な方が、信仰的に優れているワケではない。むしろ、罪[sins]を気に留めず、肉にしたがって生きているような、未熟かつ傲慢な「乳飲み子」のほうが、教会活動は満喫できるのかもしれない。極論すれば、未信者でも教会に通い、友人が多くおり、イベントに参加して「教会生活」を楽しんでいる方もいる...。


地域教会に所属し、友人関係を築き、活動にいそしむのは悪いことではない。共に集まり、交わりを持ち、行いの伴う信仰で生活するのは良いことであり、そういった環境が与えられているのは、神の恵みである。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。へブル10:25

と聖書は教えている。


だが、地域教会に所属すること、そこで熱心な、活発な、敬虔な教会員として生きることは、神との直接の関係ではない。
祈らず、聖書を読まず、実生活において神に従わなくとも「教会生活」は可能である。


ある人は、孤独感を緩和するために、熱心に活動し、自分の居場所をつくろうとする。人間関係をつくる場所として、地域教会のある意義は小さくない。
兄弟が共に住むこと、それは詩篇で歌われているとおり、神の喜ぶことである。だが、そこでの人間関係だけで充足し、神との関係を建てあげないのであれば、それは神の意図するところではない。

ある人は、罪の行為を繰り返す場合に、良心の呵責を誤魔化すために、罪の行為[sins]を償うために熱心に活動してしまう。浮気をした夫が、家族サービスを大切にするようなものである。

ある人は、一般社会で挫折した分、この世界で活躍しようと思い、熱心に活動する。自覚なく、地域教会にあっての自己実現、をしてしまう。加えてこのような方が「牧師」になると...最悪の場合はカルトになってしまう。


そうして、スリ替えが起こる。
もしくは「牧師」という宗教家が意図的にスリ変える...。


地域教会を仲介者として、キリストとつながるように教える。
もしくは、牧師を仲介者として、キリストとつながるように。これが大問題の「牧師の祭司化」であり、また改めて記事にする。


キリストとの直接のつながりを...ことばでは教えるかもしれないが...実質において否定する。これが宗教「キリスト教」であり、「教の会」である。

聖書は、キリスト・イエスを唯一の仲介者として、神とつながるように教えている。

地域教会は、聖書の定義する「教会」ではない。「教会」はただキリストによって存在している。

地域教会は、キリストによって存在している「教会」の集うところであり、好意的に捉えると「クリスチャンの共同体」であり、好意的に捉えなければただの宗教組織に過ぎない。

聖書は、クリスチャンひとりひとりが「神の宮」「神殿」であり、そのクリスチャンの交わりが「教会」であると明示している。



もし

「地域教会が無ければ...」

「礼拝式を守らなければ...」

「牧師の権威に従わなければ...」

と考えているならば、地域教会を偶像視している、と思われる。

キリスト教」というメガネを外して、聖書を読むことをおススメしたい。