鳴鳩雑記

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信条?心情?身上?

今朝は、先日の動画を思い出しつつ、思いを巡らしていて。

 

 

西方キリスト教の「使徒信条」という文言は、共有事項の確認としては便利。

使徒信条 - Wikipedia

 

クリスチャンを自称するなら、Ⅰペテロ3:15に倣って、内容はそれなりに把握しておいた方がいいでしょう。

 

@聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 一 [3]章
1ペト 3:15 ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい。

 

 

ただ、これを礼拝式で唱えていても、暗唱していても、実際には信じていない方々のキリスト教団体もあるそうなので、宗教の演出に使われている、というのが実際のところなのかもしれない。

 

 

で、この「信じます」の「信じる」という言葉には、広辞苑によると

しん・じる【信じる】 - 広辞苑無料検索 明鏡国語辞典

❶ 少しの疑いも持たずにそのことが本当であると思う。

「神は存在すると━」 「霊魂の不滅を━」 「従来の学説を━・じて疑わない」

❷ 自分の考えや判断が確実であると思う。確信する。

「僕は彼がきっと来ると固く━・じている」 「彼女の成功を━」

❸ 相手のことばや人柄に偽りがないものと思う。

信用する。信頼する。 「私を━・じてついてきなさい」 「もう誰も━・じられない」

❹ 信仰する。

信心する。〜に帰依きえする。

 

とされており、使徒信条としては➊が該当するはずなのだろうけれど。

 

 

僕は、この「信じる」って言葉、「思い込む」という意味があると感じていて。

「病気が癒やされたと信じます」とか聞くと、思い込みました、みたいに聞こえる。

「主がなされると信じています」と聞くと、なんかオブラートに包まれているような。

 

本気で信じているのであれば、「病気は癒やされました」とか「主がなされます」でいんじゃないかと。

 

以前、ある方に使徒信条の話をしていて、「信じます」じゃなくて「事実と認めます」で読んでみてと伝えたところ、一瞬、顔に緊張感が見え、「印象が違いますね」と。

 

 

これは僕の感じ方なので、「信じる」でもいいんでしょうが、どうも好きではない。

 

で、使徒信条を「認めます」で読み直していたのだけれど。

 

読み直していると、イロイロと思うところがあり。

 

自分が「認めている」ことを、使徒信条になぞらえて書いてみました。

 

 

 

私は、天地万物の創造主、全能の父なる神を認めます。

 

私は、そのひとり子、私たちの救世主また審判者であるイエス・キリストを認めます。

 

イエス・キリスト聖霊によってやどり、おとめマリヤから 生まれ、人として地上を歩まれ、御国の福音を述べ伝え、十字架につき、死なれ、葬られ、よみがえり、天にのぼられ、全能の父である神の右に着座されました。やがてそこから来られ、地上に御国を現わされます。

私は、十字架でなされたイエスの「身代わりの死」によって、私の罪と罪々が赦免され、神の怒り、神からの呪い、永遠の滅びから、救われたことを認めます。

私は、十字架でなされたイエスの「共なる死」によって、アダムに属する旧創造、罪人としての存在が終わり、共に葬られ、共によみがえり、共に天の座にある新創造、聖徒とされていることを、認めます。

 

私は、罪について、義について、裁きについて明らかにされる方、聖霊を認めます。

 

私は、「アッバ父と呼ぶ御子の霊」により、「神の子」とされ、キリストの御体「エクレシア」とされたことを認めます。

このエクレシアは、「イエス・キリストの聖名を呼び求める者たち」であり、また「キリストの充満」であることを認めます。

 

私は、やがてイエス・キリストを見、朽ちない体を着せられ、永遠のいのちが完成することを認めます。

 

 

というところ。

 

私的な作業として、楽しめました。