今朝は、先日の動画を思い出しつつ、思いを巡らしていて。
西方キリスト教の「使徒信条」という文言は、共有事項の確認としては便利。
クリスチャンを自称するなら、Ⅰペテロ3:15に倣って、内容はそれなりに把握しておいた方がいいでしょう。
@聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 一 [3]章
1ペト 3:15 ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい。
ただ、これを礼拝式で唱えていても、暗唱していても、実際には信じていない方々のキリスト教団体もあるそうなので、宗教の演出に使われている、というのが実際のところなのかもしれない。
で、この「信じます」の「信じる」という言葉には、広辞苑によると
❶ 少しの疑いも持たずにそのことが本当であると思う。
「神は存在すると━」 「霊魂の不滅を━」 「従来の学説を━・じて疑わない」
❷ 自分の考えや判断が確実であると思う。確信する。
「僕は彼がきっと来ると固く━・じている」 「彼女の成功を━」
❸ 相手のことばや人柄に偽りがないものと思う。
信用する。信頼する。 「私を━・じてついてきなさい」 「もう誰も━・じられない」
❹ 信仰する。
信心する。〜に帰依きえする。
とされており、使徒信条としては➊が該当するはずなのだろうけれど。
僕は、この「信じる」って言葉、「思い込む」という意味があると感じていて。
「病気が癒やされたと信じます」とか聞くと、思い込みました、みたいに聞こえる。
「主がなされると信じています」と聞くと、なんかオブラートに包まれているような。
本気で信じているのであれば、「病気は癒やされました」とか「主がなされます」でいんじゃないかと。
以前、ある方に使徒信条の話をしていて、「信じます」じゃなくて「事実と認めます」で読んでみてと伝えたところ、一瞬、顔に緊張感が見え、「印象が違いますね」と。
これは僕の感じ方なので、「信じる」でもいいんでしょうが、どうも好きではない。
で、使徒信条を「認めます」で読み直していたのだけれど。
読み直していると、イロイロと思うところがあり。
自分が「認めている」ことを、使徒信条になぞらえて書いてみました。
私は、天地万物の創造主、全能の父なる神を認めます。
私は、そのひとり子、私たちの救世主また審判者であるイエス・キリストを認めます。
イエス・キリストは聖霊によってやどり、おとめマリヤから 生まれ、人として地上を歩まれ、御国の福音を述べ伝え、十字架につき、死なれ、葬られ、よみがえり、天にのぼられ、全能の父である神の右に着座されました。やがてそこから来られ、地上に御国を現わされます。
私は、十字架でなされたイエスの「身代わりの死」によって、私の罪と罪々が赦免され、神の怒り、神からの呪い、永遠の滅びから、救われたことを認めます。
私は、十字架でなされたイエスの「共なる死」によって、アダムに属する旧創造、罪人としての存在が終わり、共に葬られ、共によみがえり、共に天の座にある新創造、聖徒とされていることを、認めます。
私は、罪について、義について、裁きについて明らかにされる方、聖霊を認めます。
私は、「アッバ父と呼ぶ御子の霊」により、「神の子」とされ、キリストの御体「エクレシア」とされたことを認めます。
このエクレシアは、「イエス・キリストの聖名を呼び求める者たち」であり、また「キリストの充満」であることを認めます。
私は、やがてイエス・キリストを見、朽ちない体を着せられ、永遠のいのちが完成することを認めます。
というところ。
私的な作業として、楽しめました。