鳴鳩雑記

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「刀の重さで斬る」①②2009・04

「刀の重さで斬る」①

 

夜勤から帰り、2時間ほど寝た。 

目覚めに思い浮かんだタイトルの言葉。 

 

 

上州に住む兄弟が言っていた言葉である。 

以前から、気になっていた。

内側に響いていた。 

 


それを言った上州の兄弟分は、現代の侍だ。 

和装を好み、日本酒を愛し、抜刀術を身につけている。 

これでギターを弾くものだから、まさに「ギター侍」。

(アノ人はいまドコにいるのだろう?) 

 


彼のところに遊びに行った際、抜刀術に触れることが出来た。 

 

抜刀術の稽古において、水に浸けた畳表を巻き、それを斬る。 

 

俺も、彼の愛刀をお借りして、斬らせていただいた。 

 

使い手がまったくの素人でも、流石は日本刀、アッサリ斬れる。 

 

だが、斬り口が美しくない。 

 

しかも、刀の勢いで、畳表は飛ばされる。 

 

素人ゆえ、刀を振り回してしまう。 

 

腕のちからで斬ろうとしているらしい。 

 

 

兄弟分から、刀の重さで切るんだ、と教えられる。 

 

この言葉が、俺の内側に響いた。 

そして今朝、そのことを思わされつつ、目が覚めた。 

 

 

聖書は、神の言葉であり「御言葉の剣」といわれる。 

 

@また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(エフェソ6:17) 

 

@というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル4:12) 

 


神のちからは、御言葉をとおして働かれる。 

神のいのちは、御言葉をとおして流れる。 

御言葉にちからがあり、いのちがある。 

聖書は神の言葉であり、神は言葉によって万物を創造されたのだ。 

 


人は、御言葉を自分に都合よく解釈する。

御言葉を使って、人生を切開こう、問題を解決しよう、成功しよう、そう考える。 

 

抜刀術素人の俺が斬ろうとして、りきんで刀を振り回すかのようだ。

美しくは斬れない。刀を正しく使い切ってはいないのだ。 

刀の重みで切る。つまりは御言葉、そのままを適用するのだ。 

 


兄弟分のお師匠さんは、北野武さんが映画「座頭市」を録った際に、剣術指導をした人物とのこと。

そのお師匠さんくらいの達人が斬ると、斬ったモノはその場で動かず、滑るように落ちるらしい。 
お師匠さんに言わく、相手が斬られたことに気がつかないで死んでいく、というのが理想なのだそうだ。

 

もちろん、実際に人を斬る、そんな物騒な話はない。 

 

 


エスが語ったとき、人は変えられた。 

エスの言葉で、その人の「古い人」は死に、イエスにあるいのちによって「新しい人」となった。 

相手が気がつかないうちに、死んでいったのだ。 

 

聖書を読むことに疎かだったことを悔いる。 

御言葉に親しまず、軽んじていたことを悔いる。 

御言葉を糧とし、御言葉に生きるものでありたい。 

 

エスが御言葉を語るときに、通りよき管として、その働きを妨げないものでありたい。 

 

刀の重さで斬る。 

この言葉は、まだ内側に響いている。 

 

まだ、主が語っておられる意味を汲み取っていない気がする。 

また今月、兄弟分のところに行く予定になっている。 

なにかヒントが与えられるのではないだろうか。 

主に期待している。 

 


余談だが。 

ニッポンキリスト教キリスト教の会、そこは不可解な世界だ。 

新約聖書のどこに、

先生と呼ばせろ、礼拝堂を建築しろ、教団を派閥をつくれ、

と書いてあるだろうか。

 

なぜ書いていないことに熱心なのか。 

 

 

異端を糾弾するときに 
「聖書を切り貼りしてつなぎ合わせ、都合よく教えを作り上げる」 
などと言うが、同じ事を「正統」を自称するモノたちが行っている。 

 

こんなのが「御言葉の剣」を振りかざしているのだ。 
まさに「基地外に刃物」ではないだろうか。

 

 

 

「刀の重さで斬る」②

 

上州の兄弟分に会ってきた。 

お互いの子供らを遊ばせながら、一宿一飯の恩にあずかってきた。 

 

抜刀術の稽古を終えた、はかま姿の兄弟分が、自宅で畳表を刀で斬ってみせる。 

だが、どうも調子が悪い。 

下から切り上げる、逆の袈裟切りがにぶい。 

 

刀が喰い込んだところで止まり、畳表を斬りおとせない。 

「稽古と同じ事しちまってる」 

そう呟く。 

「手が刀より先にいっちまう」 

 

 

手が刀より先に。 

そうすると、斬れるものも切れなくなる。 

本来は刀が先で、手はそれに着いていく。 

そうすると、刀の重みを生かした、斬れる振りになるそうだ。 

 

 

今日の説教は、手が先走っている、そんな話ばっかりだ。 

刀は後についてくる、そんな話ばっかりだ。 

人生の成功法則。 

人間関係の改善。 

夢をかなえる。 

見せかけの平和。 

 


人間の理屈を、御言葉の理論武装で、さも神のことば、聖書の教え、真理をして、語っている。 

 

政党つくったアノ宗教だって、キリストの言葉で流用している。 

人間中心の、御言葉の歪曲で、宗教勢力拡大中だ。 

この世に活きる手管なら、アチラの方が上手なのだ。 

 

 

人口の1%に満たないニッポンキリスト教。 

その理由はここにあるだろう。 

人間の手ばっかりが先走り、「両刃の剣」という御言葉が活かしきれていない。 

御言葉が先にあり、人間の手はあとからついていく。 

それが、本来の説教だろう。 

 


まず聖書がなんといっているか。 

それを聖書全体の調和の中で証明し、理解させ、適用させるのが、説教者だ。 

それを自分の思想がまず先にあり、それを御言葉で正当化する。 

なんとも的外れなことだろう。 

それは説教ではなく、ただの講釈だ。 

 

 

だから小手先のことにはしる。 

説教の技術だの、話術だの、笑いをとるナントカだの。 

聞こえのいいことは語れるようになるだろう。 

 

いいだろう。 

バラムのように立派な「ことわざ」を語ればいい。 

裁きの日には、それを刈り取るのだ。 

 

 


御言葉を、真理を、そのままに語ったら、人は集まらない。 

キリスト教の、音楽、雰囲気、善行。 

そんな「宗教」に愛着をもってるキリスト教徒は、離れていくだろう。 

説教者は、献金では食えなくなるだろう。 

それでいい。 

パウロのように、自活しながら説教する気概のない者は、口を閉ざしていただこう。 

 

 

だが。 

迷いながらも、御言葉に従う。 

痛みながらも、御言葉を選び取る。 

マタイ10:39を生きる。 

そんなキリストの弟子になる者たちが、必ず起きてくる。 

 

 

聖書は、神を中心に据えている。 

神の言葉ありき。 

そこからすべてが始まっている。