「刀の重さで斬る」①
夜勤から帰り、2時間ほど寝た。
目覚めに思い浮かんだタイトルの言葉。
上州に住む兄弟が言っていた言葉である。
以前から、気になっていた。
内側に響いていた。
それを言った上州の兄弟分は、現代の侍だ。
和装を好み、日本酒を愛し、抜刀術を身につけている。
これでギターを弾くものだから、まさに「ギター侍」。
(アノ人はいまドコにいるのだろう?)
彼のところに遊びに行った際、抜刀術に触れることが出来た。
抜刀術の稽古において、水に浸けた畳表を巻き、それを斬る。
俺も、彼の愛刀をお借りして、斬らせていただいた。
使い手がまったくの素人でも、流石は日本刀、アッサリ斬れる。
だが、斬り口が美しくない。
しかも、刀の勢いで、畳表は飛ばされる。
素人ゆえ、刀を振り回してしまう。
腕のちからで斬ろうとしているらしい。
兄弟分から、刀の重さで切るんだ、と教えられる。
この言葉が、俺の内側に響いた。
そして今朝、そのことを思わされつつ、目が覚めた。
聖書は、神の言葉であり「御言葉の剣」といわれる。
@また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(エフェソ6:17)
@というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル4:12)
神のちからは、御言葉をとおして働かれる。
神のいのちは、御言葉をとおして流れる。
御言葉にちからがあり、いのちがある。
聖書は神の言葉であり、神は言葉によって万物を創造されたのだ。
人は、御言葉を自分に都合よく解釈する。
御言葉を使って、人生を切開こう、問題を解決しよう、成功しよう、そう考える。
抜刀術素人の俺が斬ろうとして、りきんで刀を振り回すかのようだ。
美しくは斬れない。刀を正しく使い切ってはいないのだ。
刀の重みで切る。つまりは御言葉、そのままを適用するのだ。
兄弟分のお師匠さんは、北野武さんが映画「座頭市」を録った際に、剣術指導をした人物とのこと。
そのお師匠さんくらいの達人が斬ると、斬ったモノはその場で動かず、滑るように落ちるらしい。
お師匠さんに言わく、相手が斬られたことに気がつかないで死んでいく、というのが理想なのだそうだ。
もちろん、実際に人を斬る、そんな物騒な話はない。
イエスが語ったとき、人は変えられた。
イエスの言葉で、その人の「古い人」は死に、イエスにあるいのちによって「新しい人」となった。
相手が気がつかないうちに、死んでいったのだ。
聖書を読むことに疎かだったことを悔いる。
御言葉に親しまず、軽んじていたことを悔いる。
御言葉を糧とし、御言葉に生きるものでありたい。
イエスが御言葉を語るときに、通りよき管として、その働きを妨げないものでありたい。
刀の重さで斬る。
この言葉は、まだ内側に響いている。
まだ、主が語っておられる意味を汲み取っていない気がする。
また今月、兄弟分のところに行く予定になっている。
なにかヒントが与えられるのではないだろうか。
主に期待している。
余談だが。
新約聖書のどこに、
先生と呼ばせろ、礼拝堂を建築しろ、教団を派閥をつくれ、
と書いてあるだろうか。
なぜ書いていないことに熱心なのか。
異端を糾弾するときに
「聖書を切り貼りしてつなぎ合わせ、都合よく教えを作り上げる」
などと言うが、同じ事を「正統」を自称するモノたちが行っている。
こんなのが「御言葉の剣」を振りかざしているのだ。
まさに「基地外に刃物」ではないだろうか。
「刀の重さで斬る」②
上州の兄弟分に会ってきた。
お互いの子供らを遊ばせながら、一宿一飯の恩にあずかってきた。
抜刀術の稽古を終えた、はかま姿の兄弟分が、自宅で畳表を刀で斬ってみせる。
だが、どうも調子が悪い。
下から切り上げる、逆の袈裟切りがにぶい。
刀が喰い込んだところで止まり、畳表を斬りおとせない。
「稽古と同じ事しちまってる」
そう呟く。
「手が刀より先にいっちまう」
手が刀より先に。
そうすると、斬れるものも切れなくなる。
本来は刀が先で、手はそれに着いていく。
そうすると、刀の重みを生かした、斬れる振りになるそうだ。
今日の説教は、手が先走っている、そんな話ばっかりだ。
刀は後についてくる、そんな話ばっかりだ。
人生の成功法則。
人間関係の改善。
夢をかなえる。
見せかけの平和。
人間の理屈を、御言葉の理論武装で、さも神のことば、聖書の教え、真理をして、語っている。
政党つくったアノ宗教だって、キリストの言葉で流用している。
人間中心の、御言葉の歪曲で、宗教勢力拡大中だ。
この世に活きる手管なら、アチラの方が上手なのだ。
人口の1%に満たないニッポンキリスト教。
その理由はここにあるだろう。
人間の手ばっかりが先走り、「両刃の剣」という御言葉が活かしきれていない。
御言葉が先にあり、人間の手はあとからついていく。
それが、本来の説教だろう。
まず聖書がなんといっているか。
それを聖書全体の調和の中で証明し、理解させ、適用させるのが、説教者だ。
それを自分の思想がまず先にあり、それを御言葉で正当化する。
なんとも的外れなことだろう。
それは説教ではなく、ただの講釈だ。
だから小手先のことにはしる。
説教の技術だの、話術だの、笑いをとるナントカだの。
聞こえのいいことは語れるようになるだろう。
いいだろう。
バラムのように立派な「ことわざ」を語ればいい。
裁きの日には、それを刈り取るのだ。
御言葉を、真理を、そのままに語ったら、人は集まらない。
キリスト教の、音楽、雰囲気、善行。
そんな「宗教」に愛着をもってるキリスト教徒は、離れていくだろう。
説教者は、献金では食えなくなるだろう。
それでいい。
パウロのように、自活しながら説教する気概のない者は、口を閉ざしていただこう。
だが。
迷いながらも、御言葉に従う。
痛みながらも、御言葉を選び取る。
マタイ10:39を生きる。
そんなキリストの弟子になる者たちが、必ず起きてくる。
聖書は、神を中心に据えている。
神の言葉ありき。
そこからすべてが始まっている。