鳴鳩雑記

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原罪はないの?

原罪はないの?というお問い合わせをいただきました。

 

そもそもの発端は、コチラ。


www.youtube.com

記事としてはコチラを。www.dr-luke.com

 

ご質問としては

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この動画では、アダム由来の罪の性質、いわゆる原罪を否定しておられまして、人類がアダムの罪を継承しているのではない、とおっしゃっていますが、本当でしょうか?

 

*詩51:5
「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりまし
た」
*エペ2:3
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に
生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら
御怒りを受けるべき子らでした」


とあるように、生まれながら、人には罪があると思っていましたがいかがでしょうか、どう思われますか。

 

非常に基本的ですが大事なことなので教えていただけますか。

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とのこと。

 

なんでも、動画のメッセを文字起こしして!

繰り返し読んでみてもピンと来ないので、ということでした。

 

スッゲー!アレを文字起こししたのかぁ…、というのが正直なところです。

 

で、話が込み入ってるし、キリスト教にあるいわゆる「原罪論」を否定する内容、多くの人にとっては受け入れがたいのかもしれないということで、質問者さんの了承を経て、ブログ記事にしました。

 

僕の回答としてのひとつは、IDFレジュメブログにて提示している内容をお伝え。

 

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罪と死の法則

創世記において、創造主はアダムが「善悪の知識の木」から食べるとき、彼が「死にながら死ぬ」また「死の中で死ぬ」と語られた。邦訳では「必ず死ぬ」と訳されている。

 

@創世記2:17【新改訳2017】

しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。

 

聖書における人の「死」は、魂と分離すること、といえる。

人は「霊・魂・身体」の三構造の存在として造られており、アダムは罪を犯した後、霊と魂が分離して、霊の機能不全に陥り、創造主に順応できない存在となり、やがて身体と魂が分離して、魂はよみに下り、身体は土に還った。

 

 始祖人であるアダムが、善悪の知識の木から食べた。この際に全人類は、彼の腰の中に存在していた、というのが創造主の永遠からの視点。

ゆえに、アダムの子孫である全人類は生まれながらに、罪の結果である「死」を持っている存在、死の中に生まれた存在、である。

生まれながらにして、霊と魂が分離して機能不全なので、人は創造主に順応できない。ただイエスは「死」をもっていなかったので、霊が健全に機能しており、創造主の存在と言葉に順応していた(ルカ伝3:42-50参照)。

 

人は、死の中に生まれ、死の支配下にあるので、罪の誘惑にあらがえない。

 

@Ⅰコリント15:56【新改訳2017】

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

 

@ローマ5:12【新改訳2017】

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──

 

人は、あるとき自己の意志によって、罪を選択をした際に、自己の内に罪を取り込んでしまう。そのため人は、内在の罪、を持つ。

 

この内在の罪が、人の肢体を用いて罪の言動を実行する。

この罪を処理しないかぎり、人は「死にながら死に」、いずれ永遠の滅びとなる。

これは法則なので、人の業では抗うことはできない。

 

この「罪と死の法則」からは、「いのちの霊の法則」によってのみ、解かれ得る。

「いのちの霊の法則」は、キリストによる救いであり、それはイエス・キリストの十字架死と復活によって、もたらされた。 

 

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以下、お送りしたメール内容。

 

さて。

 

*詩51:5

【聖書協会・共同訳】

詩 51:7 私は過ちの内に生まれ/母は罪の内に私を身ごもりました。

【新共同訳】

Psa 51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

【口語訳】 

Psa 51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

【新改訳2017】

Psa 51:5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。

【新改訳改訂3】 

Psa 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

【NKJV】 

Psa 51:5 Behold, I was brought forth in iniquity,And in sin my mother conceived me.

見よ、わたしは不義の中に生まれ、わたしの母は罪の中にわたしを身ごもった。

【TEV】 

Psa 51:5 I have been evil from the day I was born; /from the time I was conceived, I have been sinful.

私は生まれたときから悪であった。/私は宿ったときから、罪深い者であった。

 

ダビデの母親の妊娠や出産についての記述はないので、

詳細はわかりません。

 

*エペ2:3

【聖書協会・共同訳】

エフェ 2:3 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。

【新共同訳】

Eph 2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

【口語訳】 

Eph 2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

【新改訳2017】

Eph 2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

【新改訳改訂3】 

Eph 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

【NKJV】 

Eph 2:3 among whom also we all once conducted ourselves in the lusts of our flesh, fulfilling the desires of the flesh and of the mind, and were by nature children of wrath, just as the others.

この中で、私たちもみな、かつては自分の肉の欲の中に身を置き、肉と心の欲望を満たし、他の人々と同じように、生まれつき怒りの子でありました。

【TEV】 

Eph 2:3 Actually all of us were like them and lived according to our natural desires, doing whatever suited the wishes of our own bodies and minds. In our natural condition we, like everyone else, were destined to suffer God's anger.

実は、私たち全員が彼らと同じように、自分の肉体と精神の望みのままに、自然の欲望のままに生きていたのです。その自然のままの状態では、私たちも皆と同じように、神の怒りを受ける運命にあったのです。

 

【田川訳】

我々もまた皆、かつては、我々の肉の欲望の中にとどまり、肉と考えの欲するところをなしていた。ほかの人たちと同様に、本性のままに、怒りの子であったのだ。

 

永遠(時間と空間の外)の視点で見ると、神はすべてを予知されているので、「生まれながら」という表現をしている、と読めます。

 

聖書の読解は、文化も、時代も、言語も、異なるわけでして、現代の日本人には非常に難しいものであることを覚えます。

 

原罪があると思えば、原罪があるように読めます。

原罪がないと思えば、原罪がないように読めます。

翻訳も、読解も、読み手の聖書理解が反映されます。

 

この御言葉を思わされます。

 

聖書協会・共同訳 ルカによる福音書 [10]章

ルカ 10:26 イエスは言われた。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」

 

ここまでが、僕の返答。

 

 

そして、次のメールにて、三谷和司さんの記事をご紹介。

一部を抜粋させていただくと。

 

 

それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、すべての人たちに死が広がった。その結果、すべての人が罪を犯すようになった。(ローマ5:12、私訳)

 

これは私訳であり、一般には、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5:12、新共同訳)と訳され、この世に死が入り込んだのは、「すべての人が罪を犯したからです」という意味に解される。つまり、すべての人がアダムにあって罪を犯したから、死が罰として入ったと解され、アウグスティヌス以来、この御言葉は「原罪」の根拠に使われてきた。

実は、この私訳と一般的な訳の違いは、原文の「エポー」[ἐφ’ ᾧ]をどう訳すかの違いでしかない。一般的に「エポー」は、「理由を表す接続詞」、「because that」という意味に訳され、この箇所は、「すべての人が罪を犯したからです」とされる。すべての人が、アダムが罪を犯したことに参加していたから、という意味に解される。そして、これが「原罪」の根拠にされた。

しかし、フィッツマイヤー(1920~2016)は、古典ギリシャ語の文献(Thesaurus Linguae Graecae)の中から、「エポー」が使われている用例を片っ端から調べ上げ、「エポー」は「結果を表す接続詞」であり、「理由を表す接続詞」の意味で使われていたことを示す確実な用例は皆無であったとした。ゆえに、ローマ5:12の「エポー」も「結果を表す接続詞」とし、「その結果」と訳すべきとした(参:Joseph A. Fitzmyer 『To Advance the Gospel』Eerdmans 2nd ed, 1998, Grand Rapids、349~368ページ)。

 

どうやら、ギリシャ語「エポー」の翻訳の問題らしい、ということで…。

 

最終的には、納得していただけました。

 

 

まとまりのない記事になりました。