鳴鳩雑記

https://into-deep-flow.hateblo.jp/

聞くことの幸い

聖書本文は、聖書協会・共同訳より引用 。

 

イザヤ書48:12

ヤコブよ、聞け。/私が呼び出したイスラエルよ。/私がそれだ。/私は初めであり、また終わりである。

 


この「聞く」ということについて、聖書のいくつかの箇所が思い浮かびます。

新約聖書から三つの御言葉を引用します。

 


@ルカ8:18

だから、どう聞くかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」 

 


@ローマ10:17

それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。 

 


@エペソ4:21-24

あなたがたは、真理はイエスの内にある、とキリストについて聞き、キリストにおいて教えられたはずです。心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。ですから、以前のような生き方をしていた古い人、すなわち、情欲に惑わされ堕落している人を脱ぎ捨て、心の霊において新たにされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい。

 


この御言葉、新改訳「霊と心」、口語訳「心の深み」、回復訳「思いの霊」という言葉は、田川訳では「理性の霊」、岩波訳では「思念の霊」という言葉で訳されています。

 


「聞く」という言葉から、思いついた御言葉を三つ読みました。

ルカ伝8:18は、聴き方に注意すること。

ローマ書10:17は、キリストの言葉を聞くこと。

エペソ書4:21-24は、キリストに聞き、キリストの中で、新しくされていること。 

イザヤ48:12で「私に聞け、ヤコブよ。私が呼び出したイスラエルよ」と、ヤコブイスラエル、とふたつの名前で呼ばれています。

それは、生まれながらの名前と、神に出会い祝福された名前(創世記32)です。

 


エペソ書で確認したように、私たちは以前は古い人でしたが、今は新しい人です。

かつてはアダムに属する者でしたが、今はキリストに属する者です。

この新しくされた事実、救われた、という事実は、伝えられた御言葉を認めて受け入れた結果です。

ローま10:17にあるとおり、私たちが認めて受け入れた御言葉は、私たちの内で実現します。

 


そして、御言葉が私たちの内で実現していくことは、私たちの態度によります。

ルカ伝でイエスは言われました「聞き方に注意しなさい」、これは私たちの御言葉を受け止める態度、主に向かう姿勢です。

これは、必ずしも御言葉を理解する、ということではありません。もちろん、御言葉の理解はとても大切です。ですが理解の前に、私たちは御言葉を認めて受け止めることが大切です。それは、神の言葉に服する、神の権威を認める、という態度です。

 


「私に聞け、ヤコブよ。私が呼び出したイスラエルよ。」

私たちは、この世から呼び出されたもの、エクレシアです。

この世は、時とともに闇が増していきます。その中で、聖書の価値観は、ないがしろにされています。

キリスト教という名称の宗教においても、それは世と同じです。

その中にあって、神の言葉の権威を認めて服する、という態度は、暗闇に輝く光です。

それは燭台の上に置かれます。燭台は黙示録に記述されるように、エクレシアを意味しています。

暗闇の中であかりを灯す、このために私たちはこの世から呼び出されました。

神の言葉の権威を認め服するもの、「神のことば」であるキリストを認め服するもの、それがエクレシアです。

この神の言葉への正しい姿勢を持たないものは、世の流れ、世の考え、世の価値観になじんでいき、御言葉の真理を見失い、やがて黙示録にある災いを実現します。

 


イザヤ48:12において、主はご自身を「始めであり、終わりである」と教えています。

時間のはじまりから終わりまで、すべては主の御手の中、主の支配にあり、主の権威の下に、存在しています。

 


私たちはこの時間の終わりがどうなるのか、すでに聖書に記述されるところを知っています。

ですので結論的には、なにも恐れるものは、ありません。

 


目に見えるところ、耳に聞こえるところ、以前より悪くなっている、と私たちは感じています。

そして、聖書に提示される終末が、そして地上的メシア王国、千年王国が、身近に迫っている、と待ち望んでいます。

 


ただ初代教会の時代から、再臨は近い、という思想がありました。

パウロは、自分は携挙されると考えていました。

この2000年間、キリスト者は、ずっと終末を待ち望んでいました。

 私たちはかつて、教会成長、会堂建築、リバイバル、そういった地上的なものに心を向け、求めていました。福音宣教を推し進め、第宣教命令に応えるといった様相でしたが、実際には、地上の繁栄を求めていただけかもしれません。

 


目に見えるところ、耳に聞こえるところによって、終末に意識が向くようになったというのは、私たちへの主の計らいです。

主の計らいによって、終末に視点を置く、主を待ち望むという、実のところ、初代教会、使徒パウロにならう、健全なキリスト信仰に方向転換させられたといえるでしょう。

 


さて、私たちはこの世のものではありませんので、この世がどうであれ、祝福の御言葉を味わう特権が与えられています。

 @詩篇16:5-6

主はわが受くべき分、わが杯。/あなたこそ、私のくじを決める方。

測り縄は麗しい地に落ち/私は輝かしい相続地を受けました。 

 


詩篇81:16

「私は最上の小麦で民を養い/岩から出る蜜であなたを満たそう。」 

 


詩篇91:10

 91:10 災いはあなたに降りかかることはなく/病もあなたの天幕に近づくことはない。

 


これらの御言葉が、実際の生活の中で現わされるのを、私たちは見ることになります。想定できない不都合なことが起きてくるかもしれませんが、初代教会はエルサレムから散らされることで福音は広がり、キリストの充満であるエクレシアは、増殖しました。私たちの思うところを超える主の配剤が、つねに備えられています。

 


@ローマ8:28

神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。どのような事態にあっても、御言葉を認めて受け入れ、主の権威に服すことが、私たちの勝利です。

 

励ましとなる御言葉、イエシュアの言葉をふたつお伝えします。


@マタイ伝10:28

「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。」

 

@黙示録2:10

「死に至るまで忠実であれ」

 

キリスト者の召しは、ぬるいものではありません。

毎週のパン裂きにおいて確認している御言葉通り

パン裂きの導き・ひとつの例 - I.D.F.

私たちの召しはキリストの足跡に倣うものです。

 

 

@黙示録22:11-12

不正を行う者はさらに不正を行い、汚れた者はさらに汚れた者となれ。

正しい者はさらに正しいことを行い、聖なる者はさらに聖なる者となれ。

見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。