自分を客観視して、なにがしたいんだろうね、って考える。
若い時は、神様の為に~、という取り繕いで、「キリスト教の会」活動を志したりもしたけれど。
今の動機は、なんだろう、って。
僕は、小学一年生のとき、イエス・キリストを認めた。
なんで、認められたのか、わからないけれど。
三歳上の姉から、あんたも信じるんだよ、と命令があったことは覚えてる。
もともと家系的に、霊感強い系だったみたいで。
祖父が山歩きしていたら「どこそこ神社に連れて行ってくれ」とカミサマが入って来て、そこまで行ったら出て行ったとか。
そんな話は、小さなころから聞かされていた。
だから、見えない世界があることが当たり前。
幼稚園に入る前に、死後の世界に惹かれていたのも、覚えている。
なので、「キリスト教の会」の、日曜学校で。
イエス・キリストが神様で、救い主で。
そんなことを教えられると、疑いもなく受け入れていた。
なので、僕は、いわゆる伝道ってのを、されたことがない。
社会人になってから、キリストに出会って、人生観が変わる、という体験がない。
だから、イエス・キリストの福音を世に伝えよう、といったような情熱は、強くない。
子供のときに、イエス・キリストに出会う。
これは素晴らしいこと。
若い日に、創造主を覚えるのは、良い。
でもね、「キリスト教」の価値観で育つと、イロイロ難しい。
僕は宗教二世ではないけれど、似たようなもので。
小学5年生かな、6年生かな。
日曜学校で、目を閉じて、天国行けると信じてる人、手をあげて、みたいなとき。
僕は、手を上げられなかった。
自分の内に、悪があるのを知っていたから。
おそらく当時の僕は、イエス様信じて正しく生きるのがクリスチャン、と思っていたんだろう。
手を上げられなかった。
日曜学校のあと、伝道師かなんかに呼ばれてね。
僕は、泣きながら自分の内にある悪について、伝えた。
その方は、Ⅰヨハネ2:1から、弁護者キリストを教えてくださった。
ただ、それは何の解決にもならなかった。
10代は、心を病んでいて。世における黒歴史。
30代に入ってから、十字架の二面性を、代償の死、共なる死、を知った。
理解した。
そのときね。さっきの話を、明確に思い出した。
もし、あのとき。
弁護者キリストでなく、十字架の二面性を教えてもらっていたら。
僕の人生は、全く違っていただろう。
もちろん、当時の僕が、理解できたとは、思わない。
でも。
罪の単数形と複数形の違いと、その対処が伝えられていたら。
強烈に、そう思った。
おそらく、これが今の動機。
イエス・キリストの十字架。
その死、その復活。
身代わりの死、それによる「sins:罪々」の処置。
共なる死、それによる「Sin:罪」の処置。
そして、アダム属に終わり、キリスト属に生かされる、新創造。
これを、伝えたい。
箱物宗教「キリスト教の会」に幽閉されている、キリスト者、エクレシアに。
そして。
「キリスト教の会」とは関わらずに、陰謀論、スピリチュアル、世の欺瞞、そういった糸口から、聖書を見出し、キリストに出会った方々に。