鳴鳩雑記

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天の御国は激しく攻められています

@マタイ伝11:12【新改訳2017】
 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

 

「御国の福音」という概念を考えていると、この聖書箇所をすっきり理解しておくことが、大切と思う。

 

まずはコチラのブログで、この翻訳文について考察されているので、ご参照ください。

 

ダビデさん、お元気ですか?)

 

 

さて、織田訳の「王なる神の御支配」を、「天の御国」と置き換えると
 
 
「天の御国が激しい勢いで進み始めており、受ける人もまた奪い取る熱意と激しさで受け始めている。」
 
 となる。
 
 
「天の御国」は、洗礼者ヨハネの宣教から開始され、ナザレのイエスが約束された「救い主」としての証拠の奇跡である「しるし」をなされて、「天の御国」を現実のものとして、見せられた。
 
 
それは「御国の福音」と呼ばれ、イスラエル王国の回復と完成を約束した。
 
その完成は、主イエスの地上再臨による、イスラエル王国の樹立となる。
 
 
 
いま現在、主イエスの十字架死と復活、昇天により「恵みの福音」が開かれ、非イスラエル人である異邦人もまた、その「天の御国」に招かれている。
 
そして、その招きに応じて、「天の御国」を受けた、入った、というのが、クリスチャン、キリスト者、である。
 
 
  
私は「恵みの福音」は、「御国の福音」の一部であり、その入り口だと理解している。
 
「恵みの福音」が説かれている現在も、「御国の福音」は継続中であり、現在も変わりなく進行していると、考えている。
 
 
 
それは、イスラエルと異邦人は、キリストによって「新しい一人の人」とされるというのが、聖書の提示するところだから。
 
 
@エペソ2:11-19【新改訳2017】
ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、
そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
 
 
 
またローマ11章には、異邦人は「野生種のオリーブ」として「接ぎ木」されていると記述されている。
 
@ローマ11:16b-24【新改訳2017】
根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。
枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、
あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。
もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。
あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。あなたが、本来野生であるオリーブから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。
 
 
 
そもそも「新約」と呼ばれる「キリスト契約」は、エレミヤ31章にあるイスラエルへの約束である。
 
@エレミヤ31:31-37【新改訳2017】
見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。
「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」
【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」
 
 
 
創造主ヤハウェイスラエルとの約束が継続しており、異邦人はそこに接ぎ木された存在である以上、「御国の福音」は現在も継続して前進しているだろう。
 
 
「恵みの福音」としてイエス・キリストによる救いが伝えられ、多様な人種の異邦人が「接ぎ木」されている現実は、御国が激しい勢いで進み続けている様を見せている。
 
 
そして、またメシアニックジューと呼ばれる、ユダヤキリスト者が起こされている現在は、「異邦人の満ちる時」(ローマ11:25)がすぐそこに近づいていることを覚えさせられる。
 
 
このことは同時に、まもなく「教会時代」の終焉がくることを知らされる。
 
現代イスラエル国家が、イスラム諸国と国交を結んでおり、エゼキエル戦争の舞台が整っていく時代の方向性からも、それは窺い知れるだろう。
 
 
 ディスぺンセーション主義の視点では、現在が黙示録3章に記述される「ラオデキヤ教会」の時代であり、その「ラオデキヤ教会」は「自由主義神学」の教会を指す、と理解されている。
 (極私的には「自由主義神学」の集まりは「教会」ではないと思う。エクレシア=呼び出されたもの、と考えると、あれは本当にこの世から呼び出されたものではなくこの世のもの、実際のところ未信者ではないだろうかと思わざるをえない。)
 
 
しかしながら、「自由主義神学」でない団体、組織、個人は、ラオデキヤ教会への警告は無関係、といえるだろうか。
 
 
ラオデキヤの教会は、生ぬるい、と評されている。
 
その「ラオデキヤ」という名前は「民衆の習慣」、「人々の異見」という意味があるといわれる。
 
 
進化論などの世に迎合した聖書理解を持つ。
 
異教由来のクリスマスやイースター、さらにはハロウィンさえ受け入れる。
 
キリスト教の習慣を行いつつも、御言葉よりも人の意見が優先される。
 
「愛」「祝福」「喜び」という、人に受ける内容は語るが、「罪」「思い改め」「裁き」は語らない。
 
 
これってどうでしょう。
 
自由主義神学じゃなくとも、十分に生ぬるいのではないだろうか。
 
口から吐き出す、という言葉が、実際に何を意味しているのか。
 
ひとりひとり、考えるべきでしょう。
 
 
 
さて、冒頭の御言葉、マタイ伝11:12の私訳。 
 
「天の御国が激しい勢いで進み始めており、受ける人もまた奪い取る熱意と激しさで受け始めている。」
 
 
奪い取る熱心さ、激しさは、生ぬるさとは対極の姿勢。 
 
間違いや過ちを恐れず、前進して、天の御国=神の支配、を獲得していきたい。