鳴鳩雑記

https://into-deep-flow.hateblo.jp/

ボスケとポイマイネから

ボスケとポイマイネの差異は、なんぞや。
と思ったところからの考察。


聖書協会・共同訳 ヨハネによる福音書 [21]章
ヨハ 21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。
ヨハ 21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。
ヨハ 21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。


ギリシャ語だと15節と17節は「ボスケ」、16節は「ポイマイネ」。

業界聖書だと…。
ボスケは、口語訳のみが「養いなさい」であり、新共訳、協共訳、新改訳は「飼いなさい」。
ポイマイネは、口語訳「飼いなさい」、新共訳、協共訳は「世話をしなさい」、新改訳は第三も2017も「牧しなさい」。

回復訳、望月訳、田川訳、も同じような感じ。

岩波訳は「世話をしなさい」「牧しなさい」「世話をしなさい」となっており…。

意味は同じようだと思いつつ、ペケッターで質問したところ、相互フォローさんが教えてくださった。

ボスケ :家畜に餌をあたえる
ポイマイネ:牧する(治める、体の世話をする、魂に供給する)

とのこと。

主にある姉妹に感謝します。

ここから、考察開始。
ペテロの回復、とは違う視点での思索。

エスはエクレシアを「私」と認識される。

@聖書協会・共同訳 使徒言行録 [9]章
使徒 9:3 ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
使徒 9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。
使徒 9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。


サウロは、イエスと面識はなく、エクレシアを迫害していた。
そのサウロに対し、イエスは「なぜ、私を迫害するのか」と言っておられることから、イエスはエクレシアを「私」と認識されていることがわかる。


@エペソ5:29‐30 KJV私訳
5:29 これまで、誰も自分の身を憎んだ者はいません。かえって、キリストがエクレシアになさったように、わが身を養い、いたわるものです。
5:30 私たちはキリストの体の一部、彼の骨であり、彼の肉なのです。

このイエスの召天後の視点で、「私を愛するか」を「エクレシアを愛するか」で読んでみたい。


ギリシャ語の意味を汲んでみるとこうなる。

アガペー:無限の愛、無償の愛、一方通行の愛
フィレオ:友愛、対等な関係のつながり、双方向の愛
ボスケ :家畜に餌をあたえる
ポイマイネ:牧する(治める、世話をする、供給する)


一度目の問答
イエシュア「無償の愛するか」
ペテロ  「友愛します」
イエシュア「子羊に餌をあたえなさい」


二度目の問答
イエシュア「無償の愛するか」
ペテロ  「友愛します」
イエシュア「羊を世話しなさい」


三度目の問答
イエシュア「友愛するか」
ペテロ  「友愛します」
イエシュア「羊に餌をあたえなさい」


子羊に餌をあたえることには、アガペーで問われている。
羊の世話をすることは、アガペーで問われている。
羊に餌をあたえることは、フィレオ―で問われている。

ヨハネ10:2‐5 聖書協会・共同訳 ヨハネによる福音書 [10]章
ヨハ 10:2 門から入る者が羊飼いである。
ヨハ 10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
ヨハ 10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。
ヨハ 10:5 しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」

ヨハネ10:14‐16 聖書協会・共同訳 ヨハネによる福音書 [10]章
ヨハ 10:14 私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。
ヨハ 10:15 それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。
ヨハ 10:16 私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。

羊は、羊飼いの声を聞いてついていく。

ただし、成長していない子羊は、聞くことができない。
羊飼いの声を聞くことのできない子羊には、無償の愛に基づいて、餌をあたえることが望まれている、と考察することができる。

@Ⅰペテロ2:1‐2 聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 一 [2]章
1ペト 2:1 だから、一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨て去って、
1ペト 2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。
*ここの「救い」は「魂の救い」。「霊の救い」ではない。

子羊には「理に適った、混じりけのない乳」と表現される、純粋な御言葉をあたえることが求められている。

声を聞く羊には、2種類がいる。

聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙 [5]章
ヘブ 5:11 このことについては、話すことがたくさんありますが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。
ヘブ 5:12 あなたがたは、長らく教師をしていながら、神の言葉の初歩をもう一度誰かに教えてもらわねばならず、また、固い食物ではなく、乳を必要とする始末だからです。
ヘブ 5:13 乳を飲んでいる者は皆、幼子ですから、義の言葉を味わったことがありません。
ヘブ 5:14 固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のためのものです。


へブル書には、耳が鈍い、とされるキリスト者がいる、と書かれている。
ということは、耳の鈍い羊と、耳が鋭い羊がいる、ということ。

子羊から成長して、まだ耳が研ぎ澄まされていない若い羊。

 

そして、十分に耳が鋭くなっていなければならないにも関わらず、耳が鈍い羊。

 

それはサムエルとエリを思いださせてくれる。

@Ⅰサムエル3:8‐19 聖書協会・共同訳 サムエル記上 [3]章
サム上 3:8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、
サム上 3:9 サムエルに言った。「戻って休みなさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って、元の場所で寝た。
サム上 3:10 主が来られ、そばに立って、これまでと同じように呼ばれた。「サムエル、サムエル。」サムエルは答えた。「お話しください。僕は聞いております。」
サム上 3:11 主はサムエルに言われた。「私はイスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆耳鳴りがするであろう。
サム上 3:12 その日、私がエリの家に告げたことを、初めから終わりまですべてエリに対して行う。
サム上 3:13 私はエリに告げ知らせた。彼の息子たちが自ら災いを招いているのを知りながら、戒めようとはしなかった罪のため、私はエリの家をとこしえに裁くと。
サム上 3:14 私はエリの家について誓った。エリの家の罪はいけにえによっても、供え物によっても、とこしえに償われることはない。」
サム上 3:15 サムエルは朝まで眠り、それから主の家の扉を開けた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。
サム上 3:16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」
サム上 3:17 エリは言った。「何が語られたのか。私に隠してはいけない。もし語られたことを一つでも私に隠すなら、神がお前を幾重にも罰してくださるように。」
サム上 3:18 サムエルは一部始終をエリに話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それは主だ。主の目に適うことを主が行われますように。」
サム上 3:19 サムエルは成長し、主が彼と共におられたので、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。

耳の鈍い羊は、聞けないわけではない。
だが、祭司エリのように、今は明瞭に聞くことができない。
だが、人から聞いた言葉を受け取ることはできる。

そうした羊は、餌をあたえられる、御言葉を提示されるだけでなく、ポイマイネされること、治められ、世話をされること、(無償の愛に基づいて)が必要となる。

そして、耳の鋭い羊には、友愛して、餌をあたえること、御言葉をあたえることが、望まれている。
それは、友愛に基づくもの、つまり同労者としての交わり。

@コロサイ3:16‐17 聖書協会・共同訳 コロサイの信徒への手紙 [3]章
コロ 3:16 キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
コロ 3:17 そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。

以上の考察による思索。

子羊には、純粋な御言葉そのものを、無償の愛であたえる。
⇒適切な翻訳の御言葉を提示する

耳の鈍い羊には、御言葉をあたえるとともに、必要な世話を、無償の愛であたえる。
⇒御言葉による価値基準、思考の一新、自己存在認識を提示して共有。

耳の鋭い羊には、御言葉を分かち合う。
⇒お互いの聖書理解、姿勢、働きから学び合う。

@Ⅰペテロ5:2‐4 聖書協会・共同訳 ペトロの手紙 一 [5]章
ペト 5:2 あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。恥ずべき利得のためにではなく、本心から、そうしなさい。
1ペト 5:3 割り当てられた人々を支配しようとせず、むしろ、群れの模範になりなさい。
1ペト 5:4 そうすれば、大牧者が現れるとき、あなたがたは消えることのない栄冠を受けることになります。


追記
書き終えて自分を省みる。
お前自身はどうなんだ?耳が鈍くはないのか?と。

さて、どうでしょうね。
火によって明らかにされるまで、走り続けます。
「キリストの裁きの座」に独り立つ意識は、IDFの柱のひとつですから。

聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 一 [3]章
1コリ 3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれが明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを試すからです。