サウルは「壺:人の作品」から油を注がれ(Ⅰサムエル10:1)、ダビデは「角:神の作品」から油を注がれた(同16:13)。
「壺」の権威が、頭に載せているものは「青銅」すなわち「裁き」。
そして、同じ姿にしよう、と試みる。
ここはあるのは、「宗教」と「いのち」の対比。
「宗教」は、特定の「場」や「ところ」で(エペソ1:23の業界聖書の意訳)において 「礼して拝し」 「信じて仰ぎ」 神に結びつこうとする。
「キリスト教の会」も同様。 キリスト者は「いのち」により神に結びついている。
「この山でもエルサレムでもなく、父を霊拝する時が来る。」ヨハネ伝4:21
@ガラテヤ 2:20 恊共訳
生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。
@Ⅰヨハネ4:13 恊共訳
神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。