リバイバル 2008.12.30
百年に一度の不況。
そういった言葉が聞こえている。
世界一の優良企業さえ、衰えを見せている。
派遣社員が職を失い、住まいを失い、希望を失っている。
今日明日も、ハローワークは開いている。
それは一筋の光になるのだろうか、焼け石に水に過ぎないのだろうか。
この不況の景気対策に、また年金問題に、有効な財源になりうるモノがある。
宗教法人に課税するのである。
営利企業と同等とまでいかなくとも、宗教法人からも税金を徴収するのだ。土地や建物に固定資産税を掛けるだけでも、かなりの税収になるだろう。
そうするとどうなるだろう。政策や経済に関しては、素人故に細かいことは触れないが、福音宣教的には面白いことになると思う。
宗教団体が弱体化していく。
金儲けの商売をしているマガイモノ宗教は、自然に消滅する。
この世の繁栄を謳っている宗教は、声高に叫べなくなる。
暴対法施行後に少年犯罪が増えたように、宗教団体ではない小規模の組織、個人的なオカルトや占いが、今より増えるだろう。
それはそれで問題にはなるのだが、巨大な宗教団体が弱体化し、影響力を持てなくなる事は望ましい。
本題はここから。キリスト教会である。
キリスト教会も同じく、組織として弱体化し、社会的影響力をなくし、地域教会として維持できなくなるところもでてくるだろう。
それでいい。本物は残る。
迫害者サウロが聞いたように、主イエス・キリストは教会を迫害することを「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われた。
教会はキリストの身体である。
税金が掛けられようと、どうしようと、本物は残る。
なぜならば、キリストは昨日も今日の変わることのない、いのちであるから、本物の教会は残るのだ。
偽物は潰れる。偽者の羊飼いも、いなくなる。
牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
ヨハネ10章
パウロのように自分で生活の糧を得て、教会に仕える者だけが牧師であればいいだろう。
家族を養うために、牧師を辞める者は信徒として仕えればいい。
信徒としてキリストに仕えることができない理由はないだろう。
イエスの時代、「ラビ」と呼ばれる者はみな職業を持っていた。ニコデモは井戸掘りだったという。ガテン系の親方である。イエス自身も大工だった。
余談だが、当時のガテン系は、社会的に知的な職業だったことを理解しなくてはいけない。イエスは大工だった、というと学識経験がないように思われがちだ。イエスは建築家だった、という方が正しいと思われる。「無学」と言われたのはエルサレムで学んでいない、という意味であって、ルカ4章でイエスが聖書を朗読するのは、訪問したラビから御言葉を学ぶ当時の習慣の故であり、イエスは立派にラビであった。
この「無学」は、地方の大学を出て官僚の世界に入り、東大出身者に差別されるようなもの。踊るなんとかの室井さんの境遇...といえばわかりやすいだろうか。
本題に戻る。
現在でも、職業を持ちながら伝道&牧会している人間は少なくない。
牧師会、勉強会、教団会議が牧師の仕事だと思っている宗教家よりは、人間的にまっとうな方が多いような気がする。
なかには道楽でやっているような人もいるようだが(笑)
会堂がなくなれば礼拝ができない?
そんなことはない。礼拝は場所によらない。
イエスは「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」と言われた。
場所にこだわる必要は、ない。キリスト教の「礼拝式」という宗教儀式はできなくなるだろうが、宗教儀式はいらない。
人間の自己満足はいらないのだ。
別にセルチャーチをするべきだ、というわけではない。
だが、会堂を持つことが重要視されている現状は、聖書的ではない。一国一城の主、という感覚に陥っているのはオカシイ。
クリスチャンが、礼拝式を中心とした「教会生活」に関心を置くことをやめ、教会での奉仕で信仰を測らず、実際の生活の場において主とともに歩む「信仰生活」が重要視されるだろう。
これが、主の求められる「リバイバル」ではないだろうか。
宗教繁盛はリバイバルではない。信仰復興がリバイバルである。
信仰復興に、宗教は不要。たとえキリストの名がついていても、不要。
宗教法人への課税。クリスチャンの政治家さんに考えていただきたいものだ。