先日、
「キリスト教という宗教をやっているんじゃなくて、 イエス様を救い主として信じる信仰を持っている」
という主旨のツイ-トを見かけた。
おっ!と喜んだのもつかの間、某キリスト教会のアカウント。
検索したら、福音派の大きな教団に属するところ。
牧師がいるし、先生という呼称も使っているご様子。
なので、
「素敵なツイートですが、イエス様への信仰を持ちつつ、キリスト教という宗教をされている、というのが現状ではないでしょうか?教団に属されて、牧師さんがおられて、先生と呼んでおられるご様子。それは立派なキリスト教と思います。」
とお送りしたところ、しばらくして「いいね」が返ってきました。
うん?どうやら、他の宗教とは違う、ということを伝えたかったご様子。
なにを意味して、キリスト教、という言葉を使うのか、差異があるわけで。
ある人は、知識が欲しければ図書館でキリスト教について学べばいい、信仰生活がしたければキリスト教会にいけばいい、と言っていたのだけれど。
僕からすれば、キリスト教会にあるのは、信仰生活ではなく宗教生活でしょ、と思うところ。
宗教生活していることで、自分は信仰生活している、と勘違いしてしまうことが問題と思う。
僕はオタクな性質なので、興味があることは調べる。
そして、なんだかんだイエス・キリストを「救い主」と受け入れて40年、水のバプテスマを受けて33年、聖霊のバプテスマを受けて25年くらいなので、僕なりに、聖書のこと、信仰のこと、キ業界こと、知ったかぶって話しをさせていただいている。
で、信仰生活において話すことは、なんだかんだ二点だけだな、と思うこのごろ。
ひとつは、イエスの血潮により頼むこと。
そして、私ではなくキリスト、ということ。
困ったときには「主イエスの血潮で覆ってください」と祈る。
また「私はあなたの十字架死の内にあって共に死に、共に葬られ、共によみがえったものです。私が生きるのではなく、あなたが私の内に生きてください」と祈る。
そうして、そこにキリストの主権を迎え入れる。
もちろん、常に彼は主権者なのだけれども、意識してその状況を彼にお任せする。
そうすると、彼はそこに、ご自身の支配を現わしてくださる。
今日は口語訳の気分なので、コチラを。
@詩編【口語訳】
4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。
@詩編【口語訳】
16:5 主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。
16:6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。
16:7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
16:8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
16:9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。
16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
16:11 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
もちろん、僕の目に好ましい状況にならないときもある。
でも、そこには彼の主権があるのだから、それを真摯に受け止めるのが、僕の分。
好ましい状況では神を賛美し、好ましくない状況では自身を省みる。
@伝道者【口語訳】
7:13 神のみわざを考えみよ。神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか。
7:14 順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
僕の信仰生活、「キリスト生活」というのは、尽きるとこコレ。
主イエスの血潮により頼むこと。
そして、私ではなくキリスト。
それがあって今の生活があり、これからへの希望がある。
キリスト教の、いわゆる地域教会とか、礼拝式とか、牧師とか信徒とか、どうでもよろしい。
そういったキリスト教という宗教の文化は、お付き合いとして、たしなむ程度。
今後も、深入りはいたしません。