鳴鳩雑記

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野生種のオリーブ

 

 

20歳のころ。周囲にクリスチャンはいなく、教会からも離れていた。

そんな中、あるとき聞いた「帰って来い」という主の言葉。


そしてそこから信仰生活に復帰。

 

だが、ある教会に通いだす中で、感じた事を思い出した。 主イエスは確かに居られ、聖霊は働かれているのに、釈然としないモノがあった。

それはそこにある宗教。人間の作り出した宗教。
でも。その宗教に染まらなければ、そこにいられない。

染まってしまった。

 

そして、そこで生きる術を身につけ、そこの価値観に染まり、キリスト教徒として生きていくようになる。

福音を人が理解し、宗教化し、キリスト教ができあがる。このキリスト教の中に福音があり、福音の中のいのちに触れて、人はキリストに出会い、霊の救いを受け取ることができる。

 

だが、キリスト教の中に、どれだけの非聖書的なことがあるだろうか。その非聖書的要素を、伝統というメッキ処理で正当化してしまっているのは、どういうことだろう。

マタイ23章を平静に読むことは難しい。現代の教職者と重なって見えてしまう。もちろん、キリスト教の教職者は主イエスを受け入れているので、パリサイ人と同じではない。 だが宗教家として、そのありようを思うと、重なってしまう。

 

日本の福音宣教、その最大の障害はキリスト教会だ、という人もいる。

 

ある意味で、同意せざるを得ない。

我々の異邦人教会は、野生種のオリーブであって、栽培種のオリーブではない。

当然、野生種の枝になる実は野生種の実であって、栽培種の実ではない。故に異邦人教会が、非聖書的に出来上がるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。


だが、同じ野生種オリーブである韓国キリスト教は、日本とは違う。儒教思想が生きていて「牧師様」「伝道師様」という、俺には異様な世界に思えるのだが、韓国は福音宣教が広まっている。なぜだろうか。



愛の故に譲歩はしても、信仰の妥協はしないのだろう。
つまりは、塩気があるのだ。

福音宣教が広まらない、この日本。

日本キリスト教は、塩気をなくしている。
愛という言葉で妥協し、知恵という言葉を使い、妥協を正当化する。
塩気をなくしていると、聖書に書いてあるとおりに、捨てられて踏みつけられる。 福音宣教が進まないのは、当然だろう。

成功と繁栄を優先させる、米国キリスト教に毒され、この世の基準で神の国を測る。米国キリスト教の二番煎じ、それが日本キリスト教ではないだろうか。

日本キリスト教は世の価値観に洗脳されてしまっている。
キリストの血潮で、もう一度「洗脳」してもらう必要がある。


まずは「先生」と呼ばれて、悦に至っている方々に考え直していただきたい。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」

呼んではいけない、ではない。呼ばれてはいけないのだ。

 

解釈と権威、原語と神学で煙に撒くのだろうか。