鳴鳩雑記

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無牧に思う

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無牧、という業界用語。

無牧、という言葉は、ボクシがいない、という意味で使われているご様子。

ボクシがいない、なので無牧とは。

 

 

まず疑問を抱くのだが。

牧者って、イエス・キリストご自身ではないのだろうか?

イエス・キリストが不在の教会(宗教団体)って、教会(エクレシア)ではないということになるだろう。

 

もう一歩踏み込ませていただくと、その教会(宗教団体)では、ボクシが牧者であって、イエス・キリストは牧者ではない、ということになる。

 

なるほど、ボクシが牧者だから、ボクシを先生と呼び、ボクシの弟子であることを表明するわけだ。

 

@マタイ23:8【口語訳】
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。

 

聖書の提示するところ、先生はイエス・キリストしかいないわけだからね。

 

 

イエス・キリストが牧者として存在しないということ。

それって、ラオデキヤの有様。

早いところ、方向転換したほうがいい。

 

@黙示録3:20【口語訳】
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

 

 

 

次に、ボクシが欲しい、って教会(宗教団体)には、士師記の記述を思わされる。

 

士師記18:18-20【口語訳】
彼らがミカの家にはいって刻んだ像とエポデとテラピムと鋳た像とを取った時、祭司は彼らに言った、「あなたがたは何をなさいますか」。
彼らは言った、「黙りなさい。あなたの手を口にあてて、われわれと一緒にきて、われわれのために父とも祭司ともなりなさい。ひとりの家の祭司であるのと、イスラエルの一部族、一氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか」。
祭司は喜んで、エポデとテラピムと刻んだ像とを取り、民のなかに加わった。

 

新約では、ひとりひとりが祭司。

ひとりひとりが、キリストの弟子。

旧約的な思考を引きずっているなら、それはよろしくない。

 

 

 

やはり、教会観が健全でないから、無牧という問題になるんだろう。

これまでの教会(宗教団体)で、シントは、ボクシにぶら下がるように、依存するように、教えられてきているのだろう。

ボクシに従い、ボクシを支えることが、シントの働き、と刷り込まれて。

ボクシがいなくなったら、どうしていいかわからない。

これって。男の甘言に乗せられ、捨てられ、身を持ち崩す、そんな昭和のドラマの筋書きを思い出してしまうんだな。

 

ボクシがいなくなった?じゃあ、順番で説教しましょうか、という流れになっていくように、シントを育てるのが、健全な教会(宗教団体)でしょう。

 

 

もちろん悪いのは、ボクシ。

シントひとりひとりが、自分でキリストにつながるように、育てなかった。

キリストの弟子として、建て上げなかった。

 

パン裂き(聖餐式)をするのは、ボクシでなければ、とか。

洗礼式は、ボクシでなければ、とか。

祝祷をできるのは、ボクシでなければ、とか。

 

シンガクを学ばなければ聖書はわからない、とか。

聖書を霊的に解釈できるのはボクシだけ、とか。

羊は羊らしく、羊飼いに従いなさい、とか。

 

そうやって、シントを依存体質、ぶら下がり、にさせた結果が、いまの「無牧」という状態だろう。

 

ま、ボクシも、神学校や教団からそう教わってきたから、それしかできないのだろうね。

依存される、ぶら下がられるのって、劣等感のある人間には心地よいものだから、仕方ないのかもしれない。

でも、期待に応え続けるために無理して、心を病んでしまうボクシも少なくないわけで、変わらなければいけないよね。

 

 

というところで。

僕としてはいつもの事ながら、キリスト教メガネを外しましょう、です。

ボクシありき、の思考を捨て、キリストのみ、という思考をもつしかありません。

 

@Ⅰテモテ2:4-5【口語訳】
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

 

聖書は、キリストのみを仲介者と提示しているのだが、キリストの前に、ボクシを仲介者にしているのが、キリスト教という宗教。

さっさと方向転換した方がいい。

 

 

さて、すぐ現実的に具体的にできることって、ネット配信のメッセ動画を利用することですよね。70代の方でも、スマホで動画を見ている時代なんだから。

 

それに、そもそもの話として。

説教ありき、の礼拝式をやめてしまえばいい。

 

聖書読書会でいいんじゃないの?

テキストとなる聖書個所をそれぞれが読み、調べ、日曜日に集った際に、感じたことを分かち合い、近況報告をして、お互いのために祈りあえれば、それでいいんじゃない?

 

@コロサイ3:16【口語訳】
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。

そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

 

@Ⅰペテロ4:10-11【口語訳】
あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。

 

オーガニックチャーチ系の僕としては、それをおススメしたい。