鳴鳩雑記

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霊と真理の礼拝ってさ②

3/13の記事「霊と真理の礼拝ってさ」で、このように書きました。

 

>多くの場合「霊と真理」という言葉が、主旨となって、メッセで語られます。

>それはそれで有意義です。

>僕もイロイロと、言いたいことはあります。

 

はい、イロイロと言いたいことがあるので、書きます。

お時間と興味のある方は、お付き合いください。

 

ヨハネ伝【新改訳2017】
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

はじめに着目する点は2点あります。

 

「時が来ます」という言葉が、2回。2回記述されている、ということは重要性を示唆しています。ふたりの証言は真実、というのが聖書の提示するところですから、同じことが2回記述されているということは、重要性を持っています。

 

そして「今がその時です」という、記述。

 

時が来ます、という表現では、まだ来ていません。

今がそのとき、という表現では、もう来ています。

 

これをどう理解するか。

今この瞬間から始まるよ!ということを強く表現したい、と理解することもできるでしょう。それもありです。

 

僕は、「これから来る」が2回で強調され、「今がそのとき」と記述されているということは、主イエスの十字架以前の教えと、十字架以降の教えの、両面を持っている、と

理解しています。

 

というのは、へブル書11:40にこう書いてあるからです。

 

@へブル11:40【新改訳2017】
11:40 神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。

 

イエス・キリストによる万物の「贖い」が、へブル書8章から10章半ばあたりに書かれているように、イエス・キリストの十字架死と復活までは、旧約時代であり、「救い」は「約束」でした。

 

ですので、福音書の主イエスの言葉は、イスラエル宣教当時の人々に教えた意味を第一義的意味として理解する、そしてそれを「新約の聖徒」であり「救い」の実際を受けているキリスト者が、自分自身にどう適用するかという第二義的意味の理解をする、この両面を考える必要があると考えています。

 

まずは、サマリヤの女に教えられた意味。

 

ヨハネ6:63【新改訳2017】
6:63 いのちを与えるのは霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

(新改訳はなんでも「御霊」にしていますが、「霊」の方がいいと思います。)

 

ここでの「ことば」は、「レーマ」という「語られたことば」。

また「いのち」は、「ゾーエ」という「霊の命」。

なので、イエスが語ったことば、その肉声を聞いて受け入れた人は、霊のいのちを受けている、というお話。

 

なので、主イエスはこう言われている。

 

ヨハネ伝【新改訳2017】
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 

ですので、サマリヤの女や12弟子たち、主イエスの肉声を聞いて、それを受け入れた人は、霊のいのちを受けた、といえます。

  

創世記2:17にあるように始祖人アダムが罪を犯してから、すべての人は「死にながら死ぬ」「死の中で死ぬ」という、「霊が死んでいる」「霊が機能不全」という存在。

新改訳では「必ず死ぬ」と訳されていますが、原語ではいわば「死、死」という記述です。

この「霊」が再生される、ということです。

アダムと同じような状態に回復されて「いのちある魂」(創世記2:7)となった、といえるでしょう。

これって、実にすごいことです。

 

 

@マタイ伝13:16-17【新改訳2017】
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。

 

と言われているとおり。

  

ただし、彼らはこの時点では、まだ「旧約」に属しています。

イエス・キリストの十字架死と復活前だからね。

 

ここまでをまとめると、福音書の時代はモーセ律法が機能する「旧約時代」であり、主イエスの宣教でその言葉を聞き、ナザレのイエスをメシアとして受け入れた人は、アダム系の存在として「霊」が再生されている、ということです。

 

便宜上、12使徒を「小羊の使徒」(黙示録21:14)と呼ぶように、この福音書時代の霊が「再生」されている方々を「小羊の弟子」と呼ばせていただこう。

  

次に、キリストの十字架死と復活により「新約の聖徒」とされた「エクレシア/召衆」への教えとしては、「御子の霊を受けた者」が、「真理である方に生きること」、これが新約の霊拝である、と考えています。

 

先にあげた、主イエスのことばにより霊が「再生」された弟子たちと違い、主キリストの復活により、新約の聖徒は「復活のいのち」を持っているから、さらにスゴイ存在です。

これは「御子の霊」のことです。

 

@ガラテヤ4:6【新改訳2017】
4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

 

この話は別記事にまとめてあるので、興味のある方はコチラを。


で、「御子の霊」を受けた存在は、「新創造」であり「新生命体」です。

 

@ガラテヤ6:15【新改訳2017】
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

 

また「御子の霊」は、「神の種」という表現もされています。

 

@Ⅰヨハネ3:9【新改訳2017】
3:9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

 

ここでの要点は「小羊の弟子」は、アダム系の存在として、霊が「再生」されていた。

「新約の聖徒」は、キリスト系の存在として、「新生」している、という差異。

 

つまり主イエスの「時が来ます」という言葉が、2回記述されているのは、奥義としての「教会」を見据えていたから、と考えられます。

 

@エペソ3:3-6【新改訳2017】
3:3 先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。
3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。
3:5 この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。
3:6 それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

 

 次に「真理」です。

ヘブル語で「真理」に当たる言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で、「確かなもの、頼りになるもの」つまりは「堅固」「不変性」「持続」を意味しているとのことです。

ギリシア語では「隠されていないこと」という意味とのことで、聖書的にいえば、「隠されている神のほんとうの姿を明らかにする」ということでしょう。

 

どっちの意味でも、イエス・キリストご自身といえるでしょう。

イエス・キリストが「真理」です。

 

ですので、真理による礼拝とは、そのまま「イエス・キリストにある霊拝」ということができます。

 

ちなみに、「礼拝」ではなく「霊拝」です。

 

では、イエス・キリストにある「霊拝」とはなんぞや、ということになります。

そこで新約の霊拝については、こちら。

 

@ローマ12:1【新改訳2017】
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

 

とあります。

詳細は、2節以降、21節まで続きます。

 

また、ヤコブ書にはこうあります。

  

ヤコブ1:26【新改訳2017】
1:26 自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
1:27 父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。

 

ここでの「宗教心」は、口語訳では「信心」と訳され、そもそもは、崇拝、畏敬、熟考、敬虔、といった意味があるとのことで、それらの意を汲むと業界用語としては「献身」という意味でもよいのかな、と思うところです。

 

率直に言えば「イエス・キリストにある霊拝」とは、「キリストに生きる事」です。

 

キリスト者の起点である、この言葉のとおりです。

 

@ガラテヤ2:20【新改訳2017】
2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

 

ここは「神の御子に対する信仰」ではなく「御子の信仰」という方が適訳です。

 

つまりは、「私ではなくキリスト」が実践されることが、「真理による霊拝」です。

 

主イエスご自身はこう教えられました。

 

@マタイ伝10:38-39【新改訳2017】
10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

 

十字架を負う、というのは、「重荷を負う」ということではありません。

十字架を負うということは、死に向って進むことであり、それに架かって死ぬことです。

 

そして、この「いのち」は「魂」とも訳せる言葉です。

 

ですので。

 

自分の魂を得るものはそれを失い、キリストのために魂を失うものはそれを得る、ともいえます。

 

自分の魂の働きである、知性、感情、意志、それに固執する、執着する。

御言葉に照らし合わせてよろしくないものでも、これはキリストに喜ばれないとわかっていても、それを放棄しない。

そういった姿勢で生きるときに、結果的には、魂の幸いを失ってしまう。

キリストのために自分の魂を捨てるものは、結果的には、魂の幸いを得る、ということにとなる。

 

そして魂の幸いが、その人の生活に、人生に、大きな影響をもたらします。

 

@Ⅲヨハネ1:2【新改訳2017】
1:2 愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。

 

ガラテヤ2:20に生きることが、「新約の聖徒」また「キリストの弟子」の在り方であり、それこそが人の幸いの道、といえるでしょう。

 

 

まとめます。

 

「霊と真理の礼拝」とは、「御子の霊を受けた者」が「真理である方に生きること」。

「御子の霊を受けた新約の聖徒」が「私ではなくキリストを実践する事」です。

 

霊も、真理も、イエス・キリストです。

 

ヨハネ14:6【新改訳2017】
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 

この「いのち」は「ゾーエ―」なので、「霊」の「いのち」です。

 

つまりは「キリストとして生きること」、これが「霊と真理による霊拝」です。

 

それを実践するのが、キリスト者

僕はそう理解しています。

 

具体的にどうするのかといえば、前回の記事に書きました。

 

ひとりひとりのキリスト者が存在しているところ、置かれているところ、家庭、職場、友人関係、人とのつながり、地域教会、それらすべてにおいて。

そこに主なる神(ヤハウェエロヒム)の主権、イエス・キリストの御支配、聖霊の働き、を認めるときには、そこで「霊拝」が成されている、と僕は理解しています。

 

ですので、ビジネスマンの方が職場で、主に祈りつつ、その働きを捧げるなら、それは霊拝です。

主婦の方が、主の権威に伏しつつ、食事を用意し、清潔な衣服のために洗濯をし、衛生的な環境のために掃除をするとき、そこに「霊拝」があります。

 

僕は「宗教」ではなく、「生活」を勧めます。

キリストにあって生きる「生活」。

キリストを認める「生活」。

キリストに捧げる日常の「生活」。

それが「霊拝」です。

 

もちろん、キリスト者が集い、ともに神を賛美し、御言葉を語り合い、賜物を持って建てあげ合うときも「霊拝」です。

 

この内容、一度書いておかないと次に進めないので、書きました。

お付き合いいただき、まことにありがとうございました。