鳴鳩雑記

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2024.11.09 オンラインミーテイング

このオンラインミーテイングはI.D.F.主催、キリストにある「霊の兄弟姉妹、世にある友人」の方々との御言葉の共有です。

I.D.F.は、ガラテヤ2:19ー20とエペソ2:6を、キリスト者の起点として認め、ガラテヤ6:14に生きる「十字架者」のつながりです。

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霊により理解する

 

@Ⅰコリント2:11-14

2:12 私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
2:13 この賜物について語るにも、私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊が教える言葉を用います。つまり、霊によって霊のことを説明するのです。
2:14 魂の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。

 

 

聖書理解の差異

 

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各人、生まれの資質、生まれた環境、育った文化背景、受けた教育、経験、違います。

キリスト者は、イエス・キリストに出会った経緯も、状態も、違います。

聖書との関わり方も、各人の違いがあります。

そこに、経験に基づく個人的な価値基準、という思い込みがあります。

聖書理解の目的は、永遠のいのち、御父とキリストを経験的に知ることです。

ヨハネ伝17:3 
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

キリスト者的に言えば、自分の体験を、御言葉の価値観で理解することで、御父とキリストのすばらしさを知っていくことが、永遠のいのち。

これが聖書理解の目的です。聖書には何と書いてあるのか。それをどう理解しているのか。理解したことに忠実に生きるかどうか。これらは個人の自由であり責任です。

 

 

十字架の二面性~罪と罪々の処置

カルバリの十字架におけるイエスの死により、「罪を裁く」神の義と、
「人を憐れむ」神の愛が完全に表された。
このイエスの十字架死と復活は「いのちの霊の法則」による人類救済をもたらした。イエス・キリストを救い主として受け入れる者に、「罪と死の法則」からの解放という恵みをあたえる。
 

@ローマ8:2【協共訳】
キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
 


罪とは

旧約聖書の原意では、おおまかに三種類の言葉が使われており、「間違い」、「悪を選ぶ」、「逆らう」、という意味。
新約聖書における原意はおおよそ、アーチェリー競技に由来する言葉で、「的外れ」という意味であり、基準から外れる事、規格外、といえる。
 

これらの意味をくみ取るならば、神の定めから外れること、神の言葉に背くこと、神の主権を認めないこと、創造の意図から離れて生きる事、といえるだろう。

創世記において、人は「善悪の知識の木」を取って食べた。これは、神に従って生きる、神にあって生きる、神とともに生きる、神とひとつとして生きる、という人間の創造の目的を拒否することであり、それは神への反逆であった。

人間が神に従って生きるのではなく、自分で物事を判断して生きる、この創造の秩序から離れた生き方、神から分離しているが「的外れ」であり、「罪」。 
 

今日の代表的な「的外れ」 → 聖書の否定また歪曲。
人の理解できる範囲に創造主を制限する(創造、処女懐胎、復活などの否定)。
 

なお、誘惑に遭うことは「罪」ではない。イエスも誘惑に遭われた。
誘惑に遭うことと、罪を犯すことは、全く違うことである。
誘惑により葛藤することは「罪」ではない。

罪の誘惑に遭うことで、自分を「罪人」と思ってしまう方がいる。
罪の誘惑に遭い葛藤することは「罪の奴隷」ではない証拠。
自己存在認識と状態は別のこと。
 王族に生まれたのであれば、仮に犯罪者となっても、王族。

 

罪と死の法則


創世記において、創造主はアダムが「善悪の知識の木」から食べるとき、彼が「死にながら死ぬ」また「死の中で死ぬ」と語られた。邦訳では「必ず死ぬ」と訳されている。
 
@創世記2:17【協共訳】
ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。
取って食べると必ず死ぬことになる。



聖書における人の「死」は、魂と分離すること、といえる。
人は「霊・魂・身体」の三構造の存在として造られており、アダムは罪を犯した後、霊と魂が分離して、霊の機能不全に陥り、創造主に順応できない存在となり、やがて身体と魂が分離して、魂はよみに下り、身体は土に還った。


 
始祖人アダムが、善悪の知識の木から食べた。この際に全人類は、彼の腰の中に存在していた、というのが創造主の永遠からの視点。

ゆえに、アダムの子孫である全人類は生まれながらに、罪の結果である「死」を持っている存在、死の中に生まれた存在、である。

生まれながらにして、霊と魂が分離して機能不全なので、人は創造主に順応できない。人は、死の中に生まれ、死の支配下にあるので、罪の誘惑にあらがえない。

*イエスは「死」をもっていなかったので、霊が健全に機能しており、創造主の存在と言葉に順応していた(ルカ伝3:42-50参照)。
 

@Ⅰコリント15:56【協共訳】
死の棘は罪であり、罪の力は律法です。

@ローマ5:12-14【恊共訳】
5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。

 
@ローマ5:12  
*別訳
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人たちに死が及んだのです。
死の結果として、全ての人が罪を犯した。

人は、あるとき自己の意志によって、罪を選択をした際に、自己の内に罪(Sin)を取り込んでしまう。

そのため人は、内在の罪、内住の罪、単数形の罪(Sin)を持つ。
 この内在の罪が、人の肢体を用いて罪の言動を実行する。この罪を処理しないかぎり、人は「死にながら死に」、いずれ永遠の滅びとなる。
これは法則なので、人の業では抗うことはできない。


この「罪と死の法則」からは、「いのちの霊の法則」によってのみ、解かれ得る。
「いのちの霊の法則」は、キリストによる救いであり、それはイエス・キリストの十字架死と復活によって、もたらされた。 
 


「罪」の単数形と複数形 


日本語の聖書では同じく「罪」という表記になってしまっているが、英語では単数形[sin]と、複数形[sins]で表現され、それぞれ意味が異なる。
 
@Ⅰヨハネ1:8-9【恊共訳】【TEV】
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。
If we say that we have no「sin」, we deceive ourselves, and there is no truth in us.

1:9私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
But if we confess our 「sins」 to God, he will keep his promise and do what is right:
he will forgive us our 「sins」 and purify us from all our wrongdoing.
  
 *単数形:内住の罪:外来の異物
 *複数形:罪過/罪々:思考と言動の違反、失敗
 
 
 
@ローマ7:15-17
【恊共訳】 7:15 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
7:16 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
【TEV】7:15 I do not understand what I do; for I don't do what I would like to do, but instead I do what I hate.  
7:16 Since what I do is what I don't want to do, this shows that I agree that the Law is right.  
7:17 So I am not really the one who does this thing; rather it is the sin that lives in me.

 
「内住の罪」を説明する際に「罪の性質」という表現が使われるが、これは正確ではない。「性質」というときには、その性質を持っているのは「私」ということになるのだが、「内在の罪」は、私の性質ではない。
 
「うちに住む」「うちに宿る」と訳されているとおり、私のうちにある「外来の異物」である。たとえるとすれば、敵の放った矢が刺さり、その矢じりが体内に残ったような状態。

 
「イエスの十字架で罪は赦された」と言われるが、この「赦された」という「無効」とされた「罪」は、代価を払って無効にしたのは罪過「sins」であって、内在の罪「sin」ではない。「内在の罪」は贖われていない。
この「内在の罪」という「外来の異物」は、この身体に依然として留まっており、機能しているままである。
 



*複数形:罪過/罪々「sins」


複数形である「罪過/罪々」、すなわち「罪の行為」は、「内在の罪」による産物。
キリスト者となっても、「内在の罪」は身体に依然として留まっており、機能している。そのため、キリスト者も罪過「sins」を選択する可能性を持ち続けている。


@ エペソ1:7
【協共訳 】
私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。
【TEV】
For by the blood of Christ we are set free, that is, our 「sins」 are forgiven. How great is the grace of God,

 
@コロサイ1:14
【協共訳】
私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。【TEV】
by whom we are set free, that is, our 「sins」 are forgiven.

 
*十字架による救済の原理
十字架による神の救済は、「内在の罪」と「罪過」の両方の処理を、一度で完全に対応している。それは始祖人アダムが全人類の代表であったこと同様に、イエスが全人類の代表として死なれた事と、罪過のある罪人の身代わりに死なれた事の、二つの事象による。
 

「内住の罪」への対処「包括の原理」


 「包括の原理」
エスの内に置かれ、その死と復活に伴われ、新しい人として生かされる。
 
ヘブル7:9-10にあるように、神は時間と空間を超越して存在しておられるので、アブラハムの子孫の誕生前に、そこにいたと見ておられる。
同様に、すべての人類は、アダムの違反の際に、彼の腰の内に存在していた。
また、イエス・キリストを「救い主」として受け入れた人を、キリストの内にあってともに死んだものと見なされ、また彼の復活の内にあってともに生きているもの、とみなされる。

 
@ローマ6:6-8【協共訳】
6:6 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
6:7 死んだ者は罪から解放されているからです。
6:8 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 


 皮の衣①:死に包まれている

始祖人アダムが罪を犯した際、創造主は皮の衣を作り、裸を覆ってくださった(創世記3:21)。

*「系列の転換」
アダム系列にある「罪の奴隷」を殺し、キリスト系列にある「義の奴隷」に復活させる。
 
@Ⅰコリント15:21-22【協共訳】
15:21 死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来たのです。15:22 つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。
 
@ローマ 6:3-8【協共訳】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。
6:4 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
6:5 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
6:6 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
6:7 死んだ者は罪から解放されているからです。6:8 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 

 
アダム系列の「私」は死んだ、というのが聖書の語る客観的事実。
キリストと一体となったことにより、新しい被造物とされた存在「新創造」、これがキリスト者
新しい神に従って生き、神にあって生き、神とともに生き、神とひとつとして生きる、ことは、新しいいのちにある生き方。
  

@ガラテヤ6:14‐15【協共訳】
6:14
しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。

 
この「新しく造られる」は別訳では「新生命体」。

アダムに属する「いのち」で生きているのではなく、復活のイエス・キリストに属する「いのち」で生きている存在が、「新生命体」であり、復活された「キリストの霊」を受けて生きている。

 
人は、アダムの腰の中にいた故に、アダムの罪の結果である「死」と一体になった。
同様にキリスト者は、キリストの十字架死の内にあって、共に死に、共に復活した存在として、復活のキリストの「いのち」と一体になっている。
それゆえに父なる神は、キリストの内に私を見る。

 

皮の衣②:死を覚えさせる

*アダム系列 
→ 創世記2:17「死にながら死ぬ」という定めを絶えず思わせる。

「死」は、罪のまま生き続けないための、神の憐れみ。


*キリスト系列 → 自分の十字架を負う歩み 
(ルカ9:23-24「日々、自分の十字架を負い」)
「死」は、復活のいのちで生きるための、神の与えられた方法。

 
ヨハネ伝15:4-5【恊共訳】
15:4 私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5  私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。

 
イエス・キリストはぶどうの木であり、キリスト者はその枝である。
キリストのよみがえりのいのちが、枝である私に流れ込むことにより、
生かされる。キリストのいのちにあって、枝を伸ばし、葉を茂らせ、実をつける、これがキリスト者である。
 

必要なことは、「魂的な私」を放棄すること。
それは、自己の持つ価値基準、優先順位、物事、事象に執着しないこと。
→ 積極的な御言葉への関与 「魂の再条件付け」による安息。
 

安息とは、魂の状態である。
書かれている御言葉に従う意志、決断、行動がないのは、ただの怠惰であり、なまけもの(箴言を参照)。

 
クリスチャンが陥りやすいことのひとつに「受動的態度」がある。
御心のみを行う、という美しい態度に見受けられるが、実際には「霊」が「魂」を支配せず、神に対して冷淡になり、敵に対して無防備になる。「魂」を主体とする生き方は誤りだが、「魂」を支配しない生き方もまた誤りである。
私を通してキリストが生きてくださることを認め、「私」を放棄するとき、キリストの「いのち」が、キリスト者から流れ出る。
 



「代償の原理」 


「罪過/sins」への対処。罪が、神の小羊に転嫁され、赦免される。
エスの贖いにより、信仰によって救いを受け取った者は、血潮で清められて「罪過」が無効とされ、赦された。
日本語での「赦される」と「許される」の違いに注意。


@エペソ1:7【協共訳】
1:7 私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。

 
@ガラテヤ3:13【協共訳】キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
申命記21:23)


@ローマ3:25【協共訳】
神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。
 

@エペソ1:7【協共訳】
私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。 
 

@コロサイ1:14【協共訳】
私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
 

@ヘブル10:10ー14【協共訳】
10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。
10:11 すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
10:12 しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
10:13 その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。
10:14 実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。
 

キリスト者の「罪過」


日々の歩みにあって、キリスト者は罪「sins」を行いうる。
だが、キリストに包括されて、アダムの子孫であった私は死んでおり、キリスト者になった私の肢体を用いて罪の行為[sins]を犯すのは、私ではなく内在の罪[sin]である。
ここをハッキリさせておかないと、いつまでもアダム系列にある「罪を犯す私」で生きていくことになる。

 
@ローマ7:20
【協共訳】
自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
【TEV】
If I do what I don't want to do, this means that I am no longer the one who does it; instead, it is the sin that lives in me.


 「罪過」を犯すのは「内在の罪」であって、私ではない。 キリスト者の「罪過」は、すべて赦されている。もちろん、罪の支配に肢体を委ねた責任は、私にある。
実行は「内在の罪」だが、委ねた責任は私にあり、その刈り取りはしなければならない。


@ガラテヤ6:7-8【協共訳】
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
 

それゆえ、罪過を選択することは愚かなこと。
 
@ローマ6:15-19【恊共訳】
6:15 では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。
6:16 知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
6:17 しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、
6:18 罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。
6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、私は分かりやすい物言いをしています。かつて、五体を汚れと不法の奴隷として献げて不法に陥ったように、今は、五体を義の奴隷として献げて聖なる者となりなさい。
 
 

旧約思考と新約思考

 
旧約思考:遠く離れた聖なる神を仰ぐ罪人の私
「罪を犯しました。赦してください。十字架を見上げます。キリストの血潮で赦してください。私の心を変えてください。私が罪を犯さないようにしてください。」

 
新約思考:聖なる神が内におられる義人の私
「罪を犯しました。赦してください。十字架を見上げます。キリストの血潮で赦されていることを感謝します。私の思いを変えてください。私の内にキリストが生きてください。」
 

@ヘブル 10:5ー14 【協共訳】
 10:5 それで、キリストは世に来て、次のように言われたのです。/「いけにえも供え物も、あなたは望まず/私のために、体を備えてくださった。
10:6 焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも/あなたは喜ばれなかった。
10:7 その時、私は言いました。/『御覧ください。私は来ました。/巻物の書に私について書いてあるとおり/神よ、御心を行うために。』」
10:8 初めに、こう言われました。「いけにえや供え物、焼き尽くすいけにえや清めのいけにえを、あなたは望まず、喜ばれなかった。」これらは、律法に従って献げられるものです。
10:9 次に、こう言われました。「御覧ください。私は来ました。御心を行うために。」第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。
10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。
10:11 すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
10:12 しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、
10:13 その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。
10:14 実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。

 

@Ⅱコリント 5:17‐21【協共訳】 
5:17 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
5:18 これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
5:19 つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪(sins)の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
5:21 神は、罪(Sin)を知らない方を、私たちのために罪(Sin)となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。

 

まとめ

単数形(Sin)と複数形(sins)

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罪(Sin)と罪々(sins)は、「霊の救い」にある処置。

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霊の救いは、神の恵みによる。

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