鳴鳩雑記

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「什一献金」って、キリスト教の「口伝律法」でしょ?

@マタイ23:23【新改訳2017】
23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

 

先日、「礼拝」について教えている本を読みました。

 

その本は全体としては、良い本です。

 

ですが。

 

その中に、「主イエスが什一献金を教えている」、「明言している」、「議論の余地はない」、と書かれてあります。

 

どうなんでしょう?

 

主イエスが、パリサイ人に「十分の一もおろそかにしてはいけません」と言った際、その「十分の一」を、どこに捧げることを前提としてお考えだったでしょうか?

 

主イエスは、その「十分の一」を、自分に捧げなさい、といったのでしょうか?

それとも、自分の弟子に捧げなさい、といったのでしょうか?

もし、主イエスがそう教えたのであれば、モーセ律法に違反することになります。

そしてモーセ律法に違反するのであれば、ナザレのイエスは、メシアではありません。

 

当然のこととして。

主イエスは十分の一を、エルサレムの神殿に捧げることを前提としておられます。

そして、その「十分の一」は神殿に捧げられ、レビ族の祭司や奉仕者のために用いられます。それが、モーセ律法の教えです。

 

主イエスが「什一献金」を教えている?明言している?議論の余地はない?

 

はい、モーセ律法の規定に沿って、そう教え、明言しています。

その点は、議論の余地はありません。

 

ですので。

もし今日、誰かがモーセ律法の規定に沿って「十分の一」を教えるのであれば、その人はまず、割礼を受けて、それから「十分の一」を教えるべきです。

そして、613あるといわれるモーセ律法を、すべて行うことを自らに課すことになります。

 

そのうえで、「什一献金」を教えてください。

モーセ律法の教えにしたがって、エルサレム神殿にそれを納めるように、です。

 

もし、その「什一献金」を、地域教会や自分が受け取るのであれば、その時点でモーセ律法に違反することになります。

 

ちなみに、新約聖書はこう教えています。

 

@ガラテヤ3:10-12【新改訳2017】
3:10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
3:12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。

 

主イエスの宣教は、モーセ律法の契約下にあるイスラエルへの宣教であり、モーセ律法が機能している時代の宣教です。

言い換えると、福音書は「新約聖書」に入っている書簡ですが、福音書の舞台は時代区分的には「旧約聖書」です。

そして、主イエスの十字架死、葬り、復活により、万物は神の創造の意図に、回帰しました。

主イエスが天の御座に着かれ、時代区分が変わりました。

「旧い契約」から「新しい契約」になり、時代が、世界が、変わりました。

 

その結果、モーセ律法は主イエスによって成就され、また廃止されました。

 

@へブル7:11-19【新改訳2017】
7:11 民はレビ族の祭司職に基づいて律法を与えられました。もしその祭司職によって完全さに到達できたのなら、それ以上何の必要があって、アロンに倣ってではなく、メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司が立てられたのでしょうか。
7:12 祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません。
7:13 私たちがこれまで語ってきた方は、祭壇に仕える者が出たことのない、別の部族に属しておられます。
7:14 私たちの主がユダ族から出られたことは明らかですが、この部族について、モーセは祭司に関することを何も述べていないのです。
7:15 もしメルキゼデクと同じような、別の祭司が立つなら、以上のことはますます明らかになります。
7:16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらず、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
7:17 この方について、こう証しされています。「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。」
7:18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために廃止され、
7:19 ──律法は何も全うしなかったのです──もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。

 

多くのキリスト教に関わる方が、モーセ律法を引きずっているように思います。

 

使徒行伝15:7-22【新改訳2017】
15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
15:12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。
15:13 二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。
15:16 『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。
15:17 それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。
15:18 ──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』
15:19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
15:21 モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」
15:22 そこで、使徒たちと長老たちは、全教会とともに、自分たちの中から人を選んで、パウロバルナバと一緒にアンティオキアに送ることに決めた。

 

「偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように」、これだけです。

「十分の一」の捧げものは、使徒行伝以降、教えられていません。

 

もし、ペテロやヨハネといった「小羊の使徒」たちや、パウロバルナバといった「新約の使徒」たちに、「十分の一」の捧げもの、「什一献金」を持って行ったら、「私たちはレビの子らではありません」と言って、受け取らないでしょう。 

 

主イエスは、パリサイ人の「口伝律法」「先祖の言い伝え」の間違いを指摘されましたよね。

今日の「什一献金」って、キリスト教の「口伝律法」ではありませんか?

「什一献金」を教えるボクシさん、いかがですか?

 

 

追記。

僕は収入の10%を目安に、捧げています。

これは、アブラハムがメルキゼデクに戦利品の10%を捧げたことに、倣っています。

 

@創世記14:18-20【新改訳2017】
14:18 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。
14:20 いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

 

 

収入の10%を捧げるって、「什一献金」と同じじゃないか!と思われる方もいるでしょう。

 

違います。

 

廃止されたモーセ律法を都合よく切り抜いて使う事と、キリストの律法に生きることは、違います。

 

キリスト教」という宗教の義務を負う事と、キリスト者にある自由の行使は、まったく違います。

 

新約の捧げものについてはこう書いてありますね。

 

@Ⅱコリント9:6-7【新改訳2017】
9:6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
9:7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

 

心で決めたとおり、これが大事。

 

コロナ過で収入が減っている、子育てにお金が掛かる、親や兄弟を支えなければならない、などの状況下で、与えられている金銭をどう管理するかは、ひとりひとりの判断に任されています。

 

主イエスは、パリサイ人の「口伝律法」「先祖の言い伝え」という、宗教の教えに疲れた人に、こう語りました。

 

@マタイ11:28-30【新改訳2017】
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

追記②

 

新約聖書は、やもめや孤児を援助するように教えています。

神に金銭をささげる方法として、これは健全です。

 

ヤコブ1:27【新改訳2017】
1:27 父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。

 

追記③

 

宗教団体のマイルールとして、「什一献金」を徴収するのは、ご勝手にどうぞ、です。

10%でも20%でも、お好きになさってください。

新興宗教は儲かるようです。