鳴鳩雑記

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新しい革袋、ってさ。

@マタイ伝9:17【新改訳2017】
9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

 

数年前かな?10数年前かな?もっと前?

この御言葉、流行りましたよね。

 

この御言葉、ハワイのホープチャペルのボクシ、ラルフ・モア氏がちょくちょく語られていたように思います。

ちなみに、彼は日本のボクシさんたちに、「先生と呼ばれるのはもう止めにしませう」と言った方。

什一献金支持者なのはなんですが、個人的に嫌いではありません。

 

さて。

この御言葉って、語るのは簡単だけど、語り手自身が新しい皮袋であるかどうか。

 

主イエスのお言葉の裏側には、古い皮袋には新しい葡萄酒は入れないよ?という思いがあるのではないでしょうか。

 

僕はペンテコステ派出身で、正直なところ「ペンテコステ派っておかしくない?」と思う部分はあるけれども、現在でも「異言が伴う聖霊バプテスマ」の聖書理解を持っているわけで、現代でも聖霊の賜物が機能することを認める立場。

で、これまでいろいろんなヨゲンシャが、日本のリバイバルについて、ヨゲンしてきたわけです。ほとんどは米国系のヨゲンシャだけど、アジアの有名な業界人もヨゲンしたり、マボロシをみたりしているわけです。

 

でも、実現していない。

それって、どういうことでしょうね?

 

もしかすると。

古い皮袋だから新しい葡萄酒を入れられないってこと、可能性としてありうるのでは?

 

マタイ伝の御言葉を貼り付けておいたけど、ルカ伝ではこう続いている。

 

@ルカ伝5:38-39【新改訳2017】
5:38 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。
5:39 まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」

 

古い物が良い、って。

今のままがいい、って。

変わりたくない、って。

 

もしかすると、その姿勢が「リバイバルのヨゲン」を、台無しにしているのかもしれません。

 

もちろん、そういったヨゲンシャが、ノリで言っちゃった、ってこともありえる話。

 

でもね。自分を省みるって、大事なことと思います。

 

@伝道者7:14【新改訳2017】
7:14 順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。

これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。

 

と聖書に書いてありますよね。

 

この世での例をあげると、日本の野球界で、選手としても監督としても活躍された野村克也さんが、こういう言葉を残しています。

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」

 

どうなんでしょうね。

 

先日、始めて聞いた話があります。

この「新しい皮袋」は「超自然的な皮袋である」というお話。

新しい葡萄酒は発酵するから古い皮袋だと…という解説は何度も繰り返し聞いてきましたが、「超自然の皮袋」という解釈は、初耳でした。

なんで、そんな解釈が出てくるのか。

それは、その語り手自身が「新しい皮袋」であるからではないでしょうか。

 

新しい皮袋?

新しい葡萄酒?

古い物はいい?

 

主イエスは、「古い葡萄酒を捨てろ」とは言いませんでしたよね。

ですので、古い葡萄酒がいい、というのであれば、そのままでもいいのかも。

 

ですが、新しい皮袋であることを願うのなら…。

これまでの古い価値観は、捨てなければならないでしょうね。