@ヨハネ伝【新改訳2017】
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
有名な御言葉ですね。
多くの場合「霊と真理」という言葉が、主旨となって、メッセで語られます。
それはそれで有意義です。
僕もイロイロと、言いたいことはあります。
ですが。
今日のオンライン集会で、語らせていただいたのは、この前の部分の重要性です。
@ヨハネ伝4:21【新改訳2017】
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
イエスの昇天があり、使徒行伝2章で聖霊が下り、エクレシア(教会or召会)が出現しました。
このエクレシアは、可視的にはコレ。
@Ⅰコリント1:2【新改訳2017】
1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
つまりは、「主イエス・キリストを呼び求める聖徒として召された人々」です。
また不可視的にはコレ。
@エペソ書【新改訳2017】
1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
「すべてのものをすべてのもので満たす方の充満」が適訳です。
というところ。
そしてまたこの「エクレシア」を構成するキリスト者ひとりひとりが、神の「神殿」とされています。
@Ⅰコリント6:19【新改訳2017】
6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
ここで、聖霊の宮=神殿、と思わない方は、お帰りくださいませ。
さて。
ここまでで、ひとりひとりのキリスト者が存在しているところ、置かれているところ、家庭、職場、友人関係、人とのつながり、地域教会、それらすべてにおいて。
そこに主なる神(ヤハウェ・エロヒム)の主権、イエス・キリストの御支配、聖霊の働き、を認めるときには、そこで「礼拝」が成されている、と僕は理解しています。
ですので、ビジネスマンの方が職場で、主に祈りつつ、その働きを捧げるなら、それは礼拝です。
主婦の方が、家族の食事を用意し、清潔な衣服のために選択をし、衛生的な環境のために掃除する、それもまた、礼拝です。
僕は「宗教」ではなく、「生活」を勧めます。
キリストにあって生きる「生活」。
キリストを認める「生活」。
キリストに捧げる日常の「生活」。
それが、礼拝、と考えます。
もちろん、キリスト者が集い、ともに神を賛美し、御言葉を語り合い、賜物を持って建てあげ合うときも、礼拝、です。
キリストにある「生活」。
それが「礼拝」です。
@ローマ12:1ー2【新改訳2017】
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。