霊においても世においても現場労働者、良きサマリヤ人のロバ、と自認している僕の思考です。
さて。
空手、という言葉から、あなたは何を思うでしょうか。
空の手?
何も持っていない。
空手?
オリンピックの種目だったよね。
空手?
あの「型」の美しさを競う武道だよね。
空手?
寸止めで、実際には当てないんでしょ。
空手?
極真?フルコン?顔面パンチなしだっけ。
空手?
協会って組手強いよね。
空手?
もとは沖縄だっけ?舟の上で武器持って戦うのが源流だよね。
空手?
目ん玉突いて、金玉蹴って、倒れたところに正拳突き、でしょ。
とりあえず、僕の想定する八つ。
もっと、他にもあるでしょう。
クリスチャンとか、キリスト者とか、それも同様。
イロイロありますよね。
武道とか武術って、そもそもの成り立ち、前提が、あるわけです。
僕の知るところ。
空手のもとは、沖縄。
舟の上で、軽武装で戦うところの「唐手」。
それが伝搬して、様々な現状になっている。
柔道は、着衣での格闘が前提。
日本文化の中で培われた武術が発祥。
カポエラの発祥は、奴隷の武術。
手が束縛された状態での、戦いが発祥。
なので、独特の足技が発展しています。
ムエタイと呼ばれるタイ式ボクシングは、タイの軍人訓練。
古流ムエタイは、また違う技術らしいです。
なにが言いたいのか。
各人、生まれの資質、生まれた環境、育った文化背景、受けた教育、経験。
それぞれ、違います。
キリスト者は、イエス・キリストに出会った経緯も、状態も、それぞれ。
新約聖書でも、認識は同一ではないご様子で。
ルカ伝では
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が躍った。エリサベトは聖霊に満たされて」
とあるが、ヨハネ伝では
「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかった」とある。
ともに聖書協会・共同訳。
聖書理解が違う、というのは、当然のことだと、僕は思います。
ボクシの話の受け売り、という方。
ネットで情報収取されている方。
1冊の聖書を通読している方。
複数の翻訳を比較している方。
ヘブル語ギリシャ語といった、原語で読まれている方。
写本の違いを気にする方。
聖書の内容への関わり方ですら、各人の違いがありますよ。
そこに、人生の経験に基づく個人的な価値基準という思い込みがあり。
実際に関わって影響を受けたキリスト者、実際に関わった「キリスト教の会」、個人で読んできた副読書や視聴した動画の影響が、反映されます。
なので、イロイロあって、当たり前でしょう。
イイか、ワルイか、は別として。
ある高齢の空手の先生が、こんな主旨のことを仰っておりました。
空手の「型」を覚えることが目的になり、きれいな「型」の奴が賞賛され、指導者になっていく。
だが「型」は動きを覚えるための手段であって、目的ではない。
目的は、実戦性であるべきだ、と。
@聖書協会・共同訳 ルカ 10:26
イエスは言われた。
「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
文脈としては、イエスの十字架死と復活の前で、モーセ律法が機能している時代。
イエスが「御国の福音」を宣教した時代。
なので、律法とされている。
新約の時代においては、
「旧約と新約には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
と、問われることでしょう。
なので僕は、自分の聖書理解を建て上げるのが大事、と考えています。
去年の聖書理解と、今の聖書理解と、違っていてもいい。
来年は、また変わっているかもしれません。
調べて、考えて、時には大きく揺り動いて、「主よ、教えてください」となり。
主イエス・キリストとの関係性の中で、聖書を理解していく。
そうすると、自分とは異なる聖書理解の方にも、敬意を持てるようになるでしょう。
(ま、使徒信条告白とかしながらその文言を否定するリベラルとか、オカルトかぶれ聖霊派とか、敬意を持つのが難しい方はおられますが)