昨年末くらいから、チョイチョイ、総合格闘技の動画を見ています。
今では総合格闘技なんて、ごくあたりまえの話だけれど、僕が某打撃系格闘技をカジッテいたころは、異種格闘技戦の延長上、模索の時期でした。
後楽園ホールで「格闘技オリンピック」なるイベントがあって、組み技系の選手同士がリング上で足を止めて、ビンタの乱れ打ち合戦。
試合後は、上半身に手の跡が着くくらい真っ赤になっていて、お師匠さんや先輩方と、いや~凄いもん見たわ~、と半笑いで引いていました。
当時は、今のオープンフィンガーグローブなんてなかったので、頭部への打撃は掌打のみというルールで、グランド状態での打撃は危険すぎると考えられていたので、UFC第一回大会は、格闘技関係者からも批判は多かったように記憶しています。
ちなみに打撃系格闘技は、型、身体の動かし方をしっかりやらないと防御ができないので、反復練習をして、動き方を身に着けてからでないと、試合は危険です。
ボクサーが鏡に向かってシャドーボクシングをしたり、トレーナーのミットを打った後に、頭を振ったり、腕で守ったり、練習を繰り返します。
空手では「型」を身に着けて、約束組手というお互いの動きを決めた対人練習をして、動き方を身に付けます。
僕自身は経験がないので聞いた話ですが、組技、寝技系は実際に組んで、肌を合わせて練習するのが基本だそうです。その中で、身体の感覚、動かし方を身に着けていく、とのことです。
おそらく総合格闘技は、その両方を身に着け、自分の中で調和させていくのでしょう。
さて。
キリスト信仰も、格闘技に通じるところがあるなぁ、と常々、考えています。
打撃系格闘技が、基本的な身体動作を身に着けてから実践に入るように、基本的な聖書理解を持たないままで聖書を読むと、わけわからんことになります。
主イエスは、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」とルカ伝で問うておられるように、書かれた文字をどう読むか、どう理解しているか、これがとっても大事です。
いろいろな聖書理解、いわゆる「神学」があるわけで、どう学んでいけばいいのか。
聞けるものを聞いて、読めるものを読んで、忘れる。
これの繰り返し。
繰り返しているうちに、自分に残っているものが、自分の聖書理解になっていきます。
イエスはヨハネ伝で「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」と、語っておられる。
今の時代、いろいろな教材があり、書籍が売られ、ネットにはHPや動画が、玉石混交でたくさんあります。
「彼の声」を聴いていくときも、迷ったり、つまずいたり、転んだり、はぐれたり、という経験は、当然、ありえます。辛い思いや痛い思いは、無駄にはなりません。
たとえば、いわゆる「使徒信条」というテキストがあります。
これの内容を、聖書の御言葉で確認することは、基本的な事柄を理解するには有益でしょう。
とりあえず、異端系の見分けにもなるし、「キリスト教」をやってるなら知っておかないといけないことがらでしょう。
また、キリスト教を生業とする方々は、これくらいはしっかりと伝え、教え、理解させてないといけないだろうと、思うところです。
で、ひととおり理解したうえで、「あれ?これって三神論なの?三位一体ってどういうことなの?」となれば、次に進むことができるでしょう。
申命記6章の「シェマ・イスラエル」から、「ヤハウェ」という固有名、「エロヒム」という一般名詞、「エハッド」という「複合的ひとつ」、といった言葉につなげるといい学びになるでしょう。
マタイ伝28章のいわゆる「大宣教命令」につなげて、「父、子、聖霊」の「名」が単数形であることにつなげてもいいでしょうし。
また組み技系格闘技が、実際に肌を合わせて感覚を身に着けるように、霊の領域では体当たり的な、主ご自身との関わり合いが不可欠でしょう。
創世記の「ヤボクの渡し」での格闘のように、なりふり構わず「実在」されるお方に向かう姿勢。
預言者エリヤのように「ヤハウェよ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」という、宗教的視点では醜いような「本音」を伝える正直さ。
それらに応えられる方を体験することは、キリスト信仰の醍醐味です。
自分で納得できる、腑に落ちる聖書理解を持つこと。
そして、自分の人生で「実在」される創造主なるお方を経験すること。
この二つを調和させていくことが、キリストに生きる、ということにつながっていくと思います。