昨年の末に一人の部屋で信仰告白をしてから一年が経ちました。
話の流れで家族に信仰を持った事を伝え、神の事を伝え、結果追い出され(笑)
何が何でも避けて来た実家に戻り。
まぁ、そりゃあ私ここに遣わされますよね、という惨状極まりない家を片付け。
喧嘩しながらも父はとても変わった。
父は父なのでたまにイラっとするけれど。
主から良い訓練を受けております。
追い出され実家に戻ったが、それまでギクシャクしていた他の家族とも解けていった。
神の事を一緒に話せる仲間が欲しくなり、SNSである兄弟にコメントをした。
学びが欲しかったのと、この人から教わりたいと思った。
Web上でやり取りした中で、言っている内容の興味深さと感じ取った建設さからだと思う。
これは真理だという直感めいたものがあった。
コメントの返信では男性陣に向けての学びをしているとの事で、あぁ女性はダメなのかぁと結構落ち込んだのを覚えている。
諦めていたら、開きましょうか?と。
マ ジ で あ ざ す 、という心情と共にご厚意で学びスタート。
は–。
こういう意味があったんですね–って毎回目が点になる学びが展開された。
聖書をただ読むだけでこれは分からん。
与えられた。
聖書解説は言葉の意味。時代背景の解説。キリストに降りかかった事の捉え方と、私たちへの適応の仕方など。細部にまで渡る。
祈り方も教えていただき、祈る機会も与えられ、毎回練習させてくれた。
そして神の事を知れば知るほど嬉しかったのと、自分が強められている実感もあった。
彼はこの学びの場を道楽だと言う。その道楽をしている彼はとてもとても楽しそうだ。
学びの最初に言われた事をよく覚えている。
誰でも間違える可能性があるし、僕の解釈も違うところがあるかもしれない。だから、毎回神様にご自分で聴いて確認してください、と。
僕の言う事を鵜呑みにしないでくださいと。僕は弟子を作りたいのではないし、師匠を持つと弟子は師を超えられないから、僕の弟子にならないでください。
彼はそう言っていた。建設的な方だと思った。
そして何より解説が分かりやすい。すごい。
最初信仰を持ってから、バプテスマを受けるつもりはなかった。
信仰告白をした時に、内側から熱いものが溢れボロ泣きしたので「聖霊」を受けたものと思っていたので、守られているし安心と。
今は違う知見に立っておりますが。
何よりバプテスマを受ける事で霊的に危険にさらされるのではと恐れていた。
いやいや、信仰を持った時点で敵にも見つかってるでしょう、と頭では思っていても、いよいよ立ち向かうと思うと怖かったのだ。
しかし、ふと思った。
これから世がどんどん大変になるのなら、受けられる時に受けておいた方が良いのでは?と。
より神に向かいたくなった。そして、バプテスマを受けるなら先出の方から受けたいと思った。
最初からすごく信頼出来た。言葉の分かりやすさ、相手への配慮、建設的なやり取り、無理なく、無理強いせず、サッパリしているが暖かく、ただしたいからで与えてくださる。ペイバックを期待せず、最適な距離感で見守ってくれる。愛を知ってる人だと思った。こちらの領分をこちらに任せてくれる。
そして、バプテスマを受ける事を神は喜んでくれる気もした。
だからバプテスマを受ける事にした。
お願いし、兄弟のご両親のお家のバスタブをお借り出来る事に。
バプテスマを受ける前にオンラインミーティングで一週間みっちり学びをいただき、そこに顔を出してくださった兄弟姉妹は「バプテスマを受けるまで守られるように」と祈ってくれた(こんな美しい祈りがあるのかと感動した)。
とても楽しみなのと反比例してどんどん嫌になったり、ろくに眠れなかった。
バプテスマを受けるまでとんでもなく揺さぶられた。
バプテスマを迎えられた。浴槽にザブン。
ぁやばい息あんまり吸わなかっ、て思ったら頭沈まってた。ぇどうしようとか思ってたらすぐ引き上げられた。まな板の上の鯉みたいな。
自分で身体の統制が取れないくらい自覚も出来ないまま、敵から必死の妨害を受けていたと、今となればよく分かる。
あの祈りはこの為だったのだ。
バプテスマを受けた感想は、「私マジでピクルスだった」でした。
何それ。ぉぉぉ何だこれって次から次へと展開していく。皆んな幸せな顔をしていた。ただただ幸せだった。
ずっと欲しかった異言も受けられた。自分ではこれが異言なのか全く分からず。
ぇ本当にこれ?と疑わしかった。
何故か他の皆んなが喋っているのは異言と分かったのだが、私のこれが本当に異言だろうかと。実感がない。でも、ものすごく欲っしていた異言を、幸いな事にバプテスマ当日に受けたのである。
私何もしてないのにこんなに良くしてもらえる。ただ自分でいて良いんだよ、それをバプテスマを受けて、一番最初にもらった気がする。
そしてバプテスマから3日後、お仕事が決まった。
祈り求め主から与えられた職場は笑っちゃうくらい悲惨だった。
思わず「絶望」という言葉が頭に浮かんでしまった。主よ。
こんなところがこの日本によくあったな、というくらいの当たりである。
当たり前なのだが、主はよくこんなところを見つけたなと。
で私それを引いた訳だ。引きが良い。
入って1週間しないで心が病みそうになり、1ヶ月しないで心が折れた。
そして心、潰れる。
キリスト者なのかが疑わしいくらい、目がギラついて、職場のあれこれを嫌い出した。
その私を都度気に留め引き上げてくださったのもバプテスマをしてくださった兄弟。
毎週のオンラインミーティングでの学びとお祈りや、他にも連絡をくれたり、エクレシアの交わりに混ぜていただけた事も、とても有り難かった。
オンラインミーティングの中で兄弟姉妹に異言が与えられるよう一緒に祈らせていただき、受けた方のおぼつかない言語を聞き、ぁそれ異言ですっ!て言えるくらいに、私は成長していた。
そして、私の異言も最初を思えば大分しっかりして来た。
兄弟姉妹に会いに行く遠征にもご一緒させていただいた(道中でのバイブルスタディ付き、手厚い)。そのすべてにとても励まされた。
職場に入ってから、上役からイジメのような扱いを受けていたが、自分の態度を改めて己を捨てた。
これ自分違うだろうと。
相手のあれこれを心の中で持ち出したって、自分も違うならそれ自分が違うよなと。
人の事よりまず自分。聖書にも人のおが屑のこと言うなって書いてある。
ひたすら御言葉を見て主により頼み。
「愛の宣言」や、兄弟姉妹がやっておられるYouTubeの音声動画を、口に出すとみるみる内に、周りに変化が。
今までのは一体何でございましょう…というくらい相手が変わり状況が変わる。
唖然とした。
ちょこちょこ、やはり妨害は受け、崩折れかけた時もあるけれども。
御言葉に帰り、今まで受けた寵愛から、主をシンプルに信じる事で、自分自身も変わっていった。
そして、遂には頭の中に鳴り止まない内藤容子さんの讃美歌を心の中で歌い、職場の人に心の中でbless youを言いまくってたら、毎日職場で栄光が現れた。
体調を崩していた方が回復し、その方の猫ちゃんの結石が消え(消えたと聞くまで結石があった事を知らなかった)、他にもお世話になっている先輩の起き上がれずご飯も食べられなくなっていた猫ちゃんがすっかり元気になり、職場の人たちの顔色が明るくなった。
私に敵意を出していた人たちの言動や態度が変わっていった。
私自身も強められた。辛さがあっても関係なかった。すべてがただ幸せだった。
そのすべてを見る度思っていた。やっぱり皆んなただ辛かったんだと。
自分の事情で突っぱねて、相手を理解したくないその気持ちを握っていたのは、自分を守る為なのと。
そう、自分を大切にして欲しかったからだ。分かって欲しかったのだ。
本人が一番苦しんでいる。タイミングが合わなかったとか些細な事もあると思う。
それが恐怖になり、自分の事ばかりになる程に、人から余裕を追い出す職場だった。
そんな上役も日々変わって来た。びっくりしている。
そして、クリスチャン二年生になった初日、職場で何と私プッツンした(笑)
あんまりにも無いなって、上役に対して私の中の許容量が閾値を越えた。
皆んな苦しんでるのに、改善する必要があるという認識自体が無い。
あまりにもお粗末と、ずっと思いながらも相手を赦し、出来る事全部やって来たのだが、あぁ!と私の中でヒューズが弾けた。
その人も日々変わって来ていた。どうしたら良いか分からなかったのだろうと、仕方がないと、ただ私がこうするのが良いと思うお仕事をしていたら、ものすごいスピードで変わって来た。
しかしその日のコップがいっぱいになり、そのグラスにヒビが入る言葉が与えられ、それを受け取ってしまった。人を傷付け無理強いしている自覚がない。
それでも、ステファノと同じ祈りをする自分を見た時に、あぁ強くなったと思った。
とんでもないような職場だったけれど、それでもそこで訓練された。
どんなに納得出来なくても祝福する。一方通行の愛を教えてもらえたから出来たのだ。
それは聖書の兄弟姉妹の姿勢を知る事からであり、交わりをいただいている兄弟姉妹の姿勢を通してでもある。学びをいただけているのは恵みだ。
癒しの事も書いておく。
夏には父と私に風邪症状が出た。兄弟姉妹にお祈りをお願いし、無事私も父も癒された。秋頃には、体重が落ちたのが気になるから調べると病院に行った父に血液のガンかもと予告がされた。これまた兄弟姉妹にお祈りをお願いし共に祈った。そして見事「身体の中にガンは見つかりませんでした」の言葉を勝ち取った。父に手を当てて祈らせてもらえた事はない。それでも癒された。神の話禁止になっていたけれども、歌の好きな父に容子さんの歌を聴いてもらえた。ハレルヤ。
神様の為に生きる、それは、私が私を生きる事。私を大切にして人も大事にする事。
神が愛した人間の最善のものを極度まで信じる事。それも快く。
“人のした悪を思わず”。
私は人を責められるほどの者じゃござぁせん。我ながら無いな、って人生を歩んでも主は私を愛し続けてくれたのだ。有り難い事に、それは今でも変わらない。そしてこの先も。
爆進…というくらい、色んな事が良い方に展開していった信仰生活一年目。
私は決してあきらめません。神が愛してくれたからです。
神様がこの愛を私に示してくださいました。今までの私の人生のあらゆる面を通して。だからこの愛を持てる私になりました。それは私が自分で持ったのではありません。
神様がくれたものです。私の神は、世界一の神様です。何もしなくても恵みをくれる。あぁ、愛されているんだ。私も、あなたも。その愛を胸に、二年生の始まり始まり。
ー神の愛に、感謝します。私が愛された事を、そして、すべての人が愛された事を。
私の人生で関わってくださったすべての方へ、幸せになってください。
それが私の恩返しです。愛しています。神が造ってくださった私の人生に出会ってくださったすべての人がくれたすべてのものを、感謝します。あなたの悲しみが溶けるように。
アーメン