「十字架の教え」内村鑑三
キリストの教えは十字架の教えなりという。
しかり。
しかれども十字架を仰ぐ教えにあらず、また十字架を唱うる教えにあらず、身に十字架を負う教えなり、しかり、身に十字架を負わせらるる教えなり。
キリストを信ずる必然の結果としてこの世とこの世の教会に批れまた唾さらるる教えなり。
十字架を負うことなくしてキリスト教あるなし、十字架を負わざるキリスト教は偽りのキリスト教なり。
今のいわゆる「キリスト教」のごときはこれなり。
@I.D.F.変換版
キリストの教えは、十字架の教え、と言われます。
そのとおりです。
しかしながら、十字架を仰ぐ教えではありません。
また十字架を唱える教えでもありません。
自分自身に十字架を負う教えであり、自分自身に十字架を負わせられる教えです。
キリストの「信」を内在化された必然の結果として、創造主ヤハウェ・エロヒムを否定する世界観に基づく社会構造と、そこに結合した「キリスト教の会」に批難され、また侮蔑される教えです。
十字架を負うことなくしてキリスト生活はありません、十字架を負わない「キリスト教」は偽りです。
今のいわゆる「キリスト教」はこれです。