人は、神によって土のちりから形造られ、その鼻に神の「いのちの息」を吹き込まれて「いのちある魂となった」存在。
@聖書協会・共同訳 創世記 [2]章
創 2:7 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。
「命」は複数形、「息」は単数形。
人はもともと、神の「かたち」に造られている。
それは人が、神の「似姿」になることを意図されている故。
@聖書協会・共同訳 創世記 [1]章
創 1:26 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
創 1:27 神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。
ここで押さえる点は、27節で「かたち」が2回記述されていること。
2回の記述により、「かたち」は強調されている。
しかし「似姿」は記述されていない。
つまり、この時点では「かたち」として造られてはいるが、「似姿」ではない。
創世記1:27では「似姿」はない。
創世記1:28、2:16-17。
創造主の「ことば」を受けた人は「似姿」を得始めた。
@聖書協会・共同訳 創世記 [5]章
創 5:1 アダムの系図は次のとおりである。神は人を創造された日、神の姿にこれを造られ、
キリスト教では「神のようになる」というのは蛇の誘惑であり、悪魔の偽り、と教える。
重要なのは、誰のことばによって、神の「似姿」を得ようとするのか、という点。
神のことばによって「似姿」となるのか。
聖書協会・共同訳 創世記 [2]章
創 2:16 神である主は、人に命じられた。「園のどの木からでも取って食べなさい。
創 2:17 ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」
それとも、神ではない存在のことばによって「似姿」になろうとするのか。
聖書協会・共同訳 創世記 [3]章
創 3:4 蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。
創 3:5 それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
神が人を創造された意図は、神の「かたち」であり「似姿」であること。
始祖人アダムは、創造主の「ことば」により「似姿」を得た、わずかに得た時点で、失敗した。
イエス・キリストは、それを回復させる。
キリスト者は、その「似姿」を得ていく「新創造」であり「新生命体」。
聖書協会・共同訳 ガラテヤの信徒への手紙 [6]章
ガラ 6:14 しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。
ガラ 6:15 割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。
*新しく造られる=新創造=新生命体
人は、神の「ことば」により生きることは、申命記でも教えられ、イエスご自身も語っておられる。
聖書協会・共同訳 申命記 [8]章
申 8:3 そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。
聖書協会・共同訳 マタイによる福音書 [4]章
マタ4:4『人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』
復活のイエスはこう言われて、神のことばによって「似姿」を獲得するように教えられた。
聖書協会・共同訳 マタイによる福音書 [28]章
マタ 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
マタ 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、
マタ 28:20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
神が人を創造された意図は、神の「かたち」であり「似姿」であること。 これを否定するのは、本末転倒。
聖書協会・共同訳 テモテへの手紙 一 [3]章
1テモ 3:16 まぎれもなく偉大なのは、敬虔の秘義です。すなわち、/キリストは肉において現れ/霊において義とされ/天使たちに見られ/諸民族の間で宣べ伝えられ/世界中で信じられ/栄光のうちに上げられた。
【TR・エターナル訳】1テモテ 3:16
また、告白されているように、敬虔についてのこの奥義は偉大です。
「神は肉において現され、霊において義とされ、御使いたちによって見られ、
諸国民の間で宣べ伝えられ、世界で信じられ、栄光の内に取り上げられた。」
そしてエクレシアはその御体。
エクレシアは「かたち」と「似姿」を持つように意図されている。
それゆえ、福音書(時代的には旧約)で、主イエスはこう言われる。
【TR・エターナル訳】ヨハネ伝3:13
また、天から下った者、すなわち、天にいる人の子以外、天に上った者は一人もいません。
【回復訳】ヨハネ伝3:13
天から下ってきて、なおも天にいる人の子のほか、天に上った者はいない。
そして、十字架死を経て復活し、昇天したイエスの統治により、使徒パウロはこう記述する。
聖書協会・共同訳 エフェソの信徒への手紙 [2]章
エフェ 2:5 過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、
エフェ 2:6 キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。
「人の子」であるイエスが「天から下ってきて、なおも天にいる」ように、
エクレシア/キリスト者は、地上に存在しつつ、天に座している。
そして、主イエスのこの言葉は実現する。
聖書協会・共同訳 ヨハネによる福音書 [10]章
ヨハ 10:9 私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。
天の領域すなわち霊の領域に生きるとともに、地の領域すなわち五感(物質)の領域に生きる存在、それがキリストの体であるエクレシア、すなわちキリスト者。
神の「かたち」であり、神の「似姿」。
それがキリスト者。
追記①
神はアブラムにこう言われている。
@創世記12:1
出でよ、おまえ自身に向かって。
おまえの国から、おまえの親族から、おまえの父の家から、私の示す地へ。
「いでよ、おまえ自身に向かって」。
これは「Lekh-Lekha」と視覚と聴覚に刺激を与える。
やがてアブラムは、ヤハウェの一文字を受けて、アブラハムに変わる。
ヘブル思考的に名前は実質なので、アブラハムはヤハウェの性質を受けている、といえる。
これはいわずもがな、キリスト者の型。
聖書協会・共同訳 ガラテヤの信徒への手紙 [4]章
ガラ 4:6 あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。
イエスは言う 「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ヨハネ伝15:5
いのちを共有する、ひとつの存在。
ペテロは言う 「神の本性にあずかる者となる」Ⅱペテロ1:4
神の御性質を共有する存在。
神の種(遺伝子)が宿っている存在。
パウロは言う 「神の成長を、成長する」コロサイ2:19
エクレシアは、キリストの御体。
キリスト者は、神の「かたち」であり、また「似姿」を獲得する者である。
追記②
エバは蛇に誘惑された際、「神のようになる」という甘言に欺かれますが、それは人の創造の目的として、神の「似姿」になることが本来的にあったからです。
エバはエバなりに、神の「似姿」になりたいと願っていたのです。
そうでなければ、神の「似姿」を得ようという欲求は発生しません。
そしてそれは、人の創造の目的から、それたものではありません。
ただ、残念ながら、エバの内にあった言葉は、神の言葉そのものではなく、「触れてもダメ」という付け加えと「死ぬといけない」という曖昧さのある言葉でした。
それは、人の言葉、でした。
神の言葉に生きることで、神「似姿」になるのが、創造本来の目的。
だがしかし。
神の言葉に背くことでそれを成そうとしたことが、過ちになりました。
始祖人アダムが、肉の肉、骨の骨、と呼んだ、愛する妻エバに、正確に「神の言葉」を伝えていたかどうか。
実のところ、そこが重要なところです。
聖書協会・共同訳 創世記 3:6ー7
彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。
創 3:7 すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。
アダムが食べた際に、「二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った」。
なぜでしょうか。
神の言葉を聞いたのはアダムであり、その責任はアダムにあったからです。