鳴鳩雑記

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「永遠」と「時間」

「永遠」においては、天地の創造以前に、全てが決まっている。

 

詩編139:16【新改訳2017】
あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。

 

@エペソ1:4【新改訳2017】
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。


@Ⅰペテロ1:2【新改訳2017】

父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。

 

@黙示録13:8【新改訳2017】
地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。

 

と記述されてあるように、「永遠」においては全て、決定している。

 

聖書の記述もまた、わたしたちに理解を促すように、「永遠」の視座と、「時間」の視座と、二つの視座がある。

 

「時間」の視座としては、これらの御言葉が該当する。

 

@創世記6:6-7【新改訳2017】
それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
そして【主】は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

 

@Ⅰサムエル15:11【新改訳2017】
「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し【主】に向かって叫んだ。

 

@Ⅰサムエル15:35【新改訳2017】
サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはなかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。【主】も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。

 

このように、「時間」の中に生きる私たち人間に理解できるように、ご自身を表明しておられる。

 

だが、それらとは矛盾するような記述がある。

 

民数記23:19【新改訳2017】
神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。

 

@Ⅰサムエル15:29【新改訳2017】

実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」

 

@エレミヤ4:28【新改訳2017】
このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない。

 

悔いたといいつつ、悔いることはないという。

聖書は矛盾している、ということもできる。

だが、それでは表層をなぞっただけの、浅薄な話で終わる。

 

「永遠」の領域におられるお方、時間と空間の外におられるお方(創世記21:33)である方、そのお方がご自身を表現されようとして、あたかも「時間」の中に存在するように、記述しておられるのだ。

 

キリスト者はそれを理解し、「永遠」の視座と、「時間」の視座と、両方を持つことができる。また、それを持つように望まれている。

 

「永遠」においては、すべてが決まっている。

人の自由意志など、幻想に過ぎない。

そう言えば、人は神のロボットなのか、神はロボットを作ったのではない、人に自由意志を与えたのだ、と反論されるだろう。

そう考えたくなるのは、「時間」の視座においては正常な思考。

だが、それは「永遠」の視座ではない。

 

聖書は「黙示録」において、正確には「啓示録」だが、そこで歴史は完成している。

ということは、「時間」がすでに、終わっているということだ。

世界中のキリスト者がどんなに熱心に祈ったとしても、聖書の黙示録の記述は変わらない。創造主のご計画通りに「時間」は進み、歴史となる

 

創造主にとっては、アダムに息を吹き込んだのも、ノアの洪水も、モーセの紅海も、アブラハムのイサク献納も、ダビデゴリアテ退治も、ネヘミヤのエルサレム再建も、イエスの誕生、試み、十字架、昇天、その後の聖霊降臨、パウロの殉教、ヨハネへのパトモスでの啓示、すべてが「現在」。

 

それが、「永遠」の視座。

 

すべては、すでに決まっている。

キリスト者は、そこに安息する。

 

@ピリピ3:20【新改訳2017】
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

 

「永遠」においては、すでに天に国籍がある。

「時間」においては、待ち望んでいる。

この、ふたつの視座。

 

定まっていない将来のために、今を生きるのではない。

すでに定まっている「永遠」にふさわしく、「時間」の中で生きるのだ。

 

申命記30:19-20b【新改訳2017】
私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。