①使徒信条の歴史
信条とは、キリスト信仰の要点を、簡潔に述べた声明。
(1)古ローマ信条(AD140年頃)
私は信じます。すべてを支配される神を、
また、その独り子なる御子、私たちの主、キリスト・イエス、
聖霊と処女マリアから生まれた方、
ボンティオス・ピラトのもとで十字架につけられ、葬られ、
三日目に、死者の中から復活され、
天に昇られ、父の右の座に就かれた方を。
そこから、〔この方は〕生ける者と死せる者とを裁くために来られます。
また、聖霊、聖なる教会、罪の赦し、肉体の復活、永遠の生命を。
(『ユリウス教皇への手紙』小高毅訳)
(2)現在の「使徒信条」は、紀元8世紀まで遡ることができる。
西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)はこれを採用している。
東方教会(正教会、東方諸教会)は、信条としては受け入れていない。内容は否定していない。
(3)使徒たちが定めたものではないが、使徒たちの教えが要約されていると考えられ、使徒信条と呼ばれている。
②使徒信条の背景
(1)水のバプテスマのために
バプテスマの際に、公の信の表明として、定型のものが必要とされた。
初代教会時代、バプテスマが重視された。
(2)バプテスマの際の3つの質問(3世紀)
・あなたは全能の父なる神を信じるか。
・あなたは、私たちの救い主、イエス・キリストを信じるか。
・あなたは、聖霊と、聖なる教会と、罪の赦しを信じるか。
この3つの質問が拡大して、信条が形成された。
②異端との区別
2世紀に入ると、グノーシス主義との論争が激しくなった。
グノーシスとは、ギリシア語で「知識」を意味する。隠された知識を得ることで、自己の本質と真の神についての認識に到達すると教える。1世紀に誕生した宗教・思想で、地中海世界に広がった。その特徴は、物質と霊の二元論。
グノーシス主義の世界観は一般的に、至高の隠れた唯一神(時にヤハウェと関連づけられる)と、他の神格との区別を示しており、下等の神格が創造主として地と人間を創造したとされる。
その結果、グノーシス主義者は、物質的存在を欠陥がある悪とみなして、救いの主要素は、神秘的あるいは秘儀的な洞察を通して得られる、隠れた神性についての直接の知識であると考えた。
グノーシス主義では、「物質的・肉体的なもの」と「霊的なもの」とを対立的に考える霊肉二元論をとり、「物質的・肉体的なもの」を悪であると捉え、「物質的・肉体的なもの」と「霊的なもの」は相容れない存在であると考える。そのため「イエスが神であるならば、神が悪である肉体をまとうはずがない」という説になる。⇒「仮現説」
グノーシス主義との論争に、リヨンのエイレナイオス(約130~200年)などは、使徒たちの伝統という概念を主張し、使徒たちの教えと調和しているかどうかを問い、使徒たちの教えを継承した。
③使徒信条と聖書の関係
使徒信条は、聖書ではない。
聖書を解釈するための道具であり、希望の弁明に使える。
@Ⅰペテロ3:15 協共訳
ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるよう備えていなさい。
④「信ず」という言葉について
日本語の日常用語としての「信ず(信じる)」の意味
(1)100%証明はできないが、それが事実(正しいこと)だと受け取っている。
(2)「(あると)思い込む」(類語辞典)
- 少しの疑いも持たずに、そのことが本当であると考える
- 自分の考えや判断が確実であると思う、確信する
- うそ偽り無く確かに正しいまことの事だと強く思い込んで受け入れる
- 当てにするに足りる頼もしい相手であると見込んで心を寄せる
-
believe一般的な「信じる」という意味で、情報や事実に対して「信じる」「確信する」ことを指します。
-
trust他者に対して「信用する」「信じる」ことを意味します。
-
faith「信仰」「信じること」「信念」「信頼」という意味で、根拠や実績などを度外視した、直感的な判断にもとづく信頼を表します。
⑤キリストを信ずることは、何か。
(1)信とは、知的同意、知的承認ではない。
@ヤコブ2:19 協共訳
あなたは、神はただおひとりだと信じています。それは結構なことです。悪霊どもでさえそう信じて、身震いしています。
(2)信とは、個人的な信頼に基づく関係。
ギリシャ語ピスティス、英語Faith は「信、忠、誠」を意味する言葉。
@ヘブル11:7ー8 協共訳
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄についてお告げを受けたとき、畏れかしこみながら、その家族を救うため箱舟を造り、その信仰によって世を罪に定め、信仰による義を受け継ぐ者となりました。
11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。
⑥使徒信条の「三位一体」
使徒信条は「三位一体」を提示している。三位一体の「父、子、聖霊」を表明しており、特に「子」であるイエス・キリストが、人として生まれ、歴史的に存在したことを、重要視している。
⑦クリスチャンによる神の存在考察
(1)存在論的
人はどの文化圏にあっても、普遍的に神の存在を信じて
いる。人類は、自分が責任を負うべき『存在』を求めている。
(2)宇宙論的
森羅万象には因果関係の法則が働いている。
創造主という「原因」が存在しないなら、森羅万象という結果は存在し得ない。
その複雑さ精密さを考える時、これが偶然の産物とは考えられない。
(3)目的論的
すべての形あるものの背後には、設計者また製作者の存在がある。
森羅万象は複雑であり精密であり、秩序をもって運行している。
この事実は、森羅万象を設計し制作した創造主が存在すること、また創造主が人の理解の及ばない知恵と力を持っていることを表している。
(4)人間論的
人の存在は、神の創造の御業を抜きにしては説明できない。
人には、知性(考える)、感情(感じる)、意志(選択)がある。
この事実は、人間を創造した神が同様の性質を保持し、しかも人間よりも偉大な存在であることを表している。
このように、キリスト者は自分の信ずることを理解しようと試みて思索し、その結果として、創造主である神の存在を暗示している考察を持っている。
信とは、非理性的なものではなく、超理性的なもの。
@内村鑑三「聖書の研究」一九〇三年
私は聖書と天然と歴史を極め、それら三つの上に私の信仰の基礎を定めたい。神の奥義と天然の事実と人類の経験・中・・・私の信仰をこれら三つの上に築くならば、誤りがなくなるであろう。科学をもって、聖書にまつわろうとする迷信を退け、聖書をもって、科学の傲慢さを退け、歴史が与える知識によって二者の平衡を保つ。これら三つは知識の柱である。そのうちの一つが欠けるなら、我らの知識は欠点あるものとなるし、我らの信仰は健全とはならない。
「事実と認めます」
使徒信条になぞらえた、I.D.F.の信の表明。
これは、創造主と、全被造物の前で、証言する意図で表している。
これは世話人の姿勢の提示しているものであり、必ずしも参加者に同意を求めるものではない。
「事実と認めます」
私は、天地万物の創造主、全能の父なる神を認めます。
私は、そのひとり子、私たちの唯一の救い主であり裁き主であるお方、イエス・キリストを認めます。
イエス・キリストは聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、人として地上を歩まれ、「御国の福音」を述べ伝え、十字架につき、死なれ、葬られ、よみがえり、天にのぼられ、全能の父である神の右に着座されました。
やがてそこから来られて、地上にご自身の王国を現わされます。
私は、罪について、義について、裁きについて、明らかにされる方、またキリスト者の内に住まわれるお方、聖霊を認めます。
私は、キリストの御体「エクレシア」を認めます。
このエクレシアは、不可視的には「キリストの充満」であり、可視的には「イエス・キリストの聖名を呼び求める者たち」であり、私はその一部とされていることを認めます。
私は、イエス・キリストの言葉が豊かに宿るように、知恵を尽くして教え合い、諭し合い、感謝して神に向かって心から歌う、キリストの御名にある交わりを認めます。
私は、十字架でなされたイエスの「身代わりの死」によって、その流された血によって、私の「罪々:sins」が赦免され、神の怒り、神からの呪い、永遠の滅びから、救われたことを認めます。
私は、十字架で死なれたイエスの内にあって「共なる死」にあずかり、共に葬られ、アダム属の旧創造である「罪人」としての存在が終わり、内住の「罪:Sin」から解放されていることを、またイエス・キリストのよみがえりの内にあって共によみがえり、キリスト属の新創造であり、「義人」また「聖徒」として存在し、イエス・キリストの内にあって共に天の座にあることを、認めます。
私は、「アッバ父よ」と呼ぶ「御子の霊」の内住により、私の霊が救われたこと、罪の刑罰から救われたことを認めます。
私は、イエス・キリストを見たことがなく、今見てはいないのに愛しており、魂の救いを得つつあること、罪の作用から救われつつあることを認めます。
私は、やがてイエス・キリストを見ることによって同じ様に変えられ、朽ちない体を着せられ、体が救われること、罪の存在から救われること、それによって救いが完成することを認めます。
私は、義の宿る新しい天と新しい地が到来することを認めます。
2024.6.04
I.D.F.深流会 世話人 吉田元