8年ぶりくらいだろうか、ブログを使うことになった。
このコロナ禍で、これまでの日常が崩れてしまった。
社会的に「キリスト教」に分類される活動は、オンライン、が主流になっている。
そのため、私の生活にも影響が及び、ブログを使うことになった。
私は社会的な意味では、キリスト教徒、を自称している。
それは、神道や仏教に属する立場ではない、ということの表明。
聖書の提示する神を信仰している、という立場を伝えるには、それが使いやすい名称だからだ。
そして、クリスチャンを自称する人の前では、キリスト教という宗教はやっていない、私はキリスト教徒ではない、と自己紹介している。
言葉の意味、言葉の定義、それはとても大切だと、私は考えている。
クリスチャン、という言葉を日本語にすると、キリスト教徒、だろうか。
それとも、キリスト者、だろうか。
私にとっては、それは違う概念であり、決して同じではない。
クリスチャンはキリスト者、私はそう定義している。
ナザレのイエスがその宣教活動をなされた際、彼はパリサイ人を叱責された。
彼らは、口伝律法を重視して、成文律法の本質を見失っていた。
私には、キリスト教という宗教が、口伝律法のパリサイ人と、重なって見えてしまう。
イエス・キリストは、2020年の現代、復活の体を持って、天の御座におられる。
私はそれを事実と認識している。
この宇宙の外、物質世界の外側に、変化のない「永遠」というところに、創造主なる方がおられる、と考えている。
私は、この方を知っている。
それは、海を知っている、というのと同じだ。
地球上の海水の重さも、その成分も、数多の潮流も、私は知りえない。
そして、その中にどれだけの生き物がいるのか。
仮にその説明を受けたところで、私には理解できないだろう。
だが、その水の塩辛さ、体をさらう波の恐ろしさ、そして、さざ波の心地よさ、太陽を反射する水面の美しさ、それらを私は体験している。
私は海を理解してはいない。だが、あの体験を否定することはできない。
私は、海を知っている。
同様に、私は創造主を理解していないが、彼を体験している。
この方は、不思議な方だ。
キリスト教でありながら、実質において宗教を放棄しているところ。
そこは、私の考えを肯定も否定もせず、存在を受け入れてくれた。
受け入れてくれた、というよりも、歓迎してくれた、という方がいいだろう。
自分の聖書理解を伝える機会が与えられている、なんてことは、一年前には想像もしていなかった。
蛇のように鳩のように。
これは私が初めに書いたブログの表題だ。
あのブログでは、キリスト教への欺瞞を書き連ね、自分の思考を解放した。
色々なキリスト教を、見てきた。
痛い思いをし、迷惑をかけ、赦しを受け、恵みをいただいた。
その結果、蛇のように聡く、鳩のように純真で、という主イエスの言葉が、実際のものとして、味わいがある。