鳴鳩雑記

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救いは失いえるのか

一度、イエス・キリストを信じた後で、その救いを失うことはありえるか。

 

人が、神に失望したとき、キリスト教という宗教を捨てるだろう。

もうこの神は信じない、と心に決めるかもしれない。

だが、本当に救われた人が、その救いを失うだろうか。

私は、失わない、と思う。

 

罪を悔い改めず、神の裁きを受ける、ということはあるだろう。

使徒5:1からの記述、アナニヤとサッピラは、侮りのゆえに死んだ。

Ⅰコリント5:5にあるように、サタンに引き渡される、ということがある。

だが、彼の霊は救われる。

ヨハネ5:16の「死に至る罪」も同様。

モーセ律法では、安息日を破るもの、姦淫や殺人などは、当事者が殺されなければならなかった。身代わりはなかった。

罪を継続する者には、それ以上に罪を重ねないよう、神は早い死をもたらされる。

 

霊の救いは、失われないだろう。

父なる神は、「アッバ」と呼ぶ霊、「御子の霊」をくださるのだ。

「御子の霊」を受けた人を、神が滅ぼすだろうか。

神の聖名の栄光のために、それはなさらないだろう。

 

一度、確かに救われたのであれば、その後、神を否定し、反抗し、逆らっても、神の実在を否定することはできない。

キリストの救いとは無関係だ、自分の好きに生きる、神に従わない、と心に決めても、心の奥深いところでは、神を知っている。

キリストはおられる、その事実を否定はできないのだ。

私はそうだった。

 

ただ、キリスト教という宗教に入信することは、救いではない。

仮に、水のバプテスマを受けても、それは救いの証拠ではない。 

あれは救われた人の、公の信仰表明の儀式であって、救いの実際ではない。

重要なのは、キリストの中にバプテスマされたかどうかだ。

 

ある人が、キリストを信じ、キリストの中にバプテスマされ、キリスト者となった。

しかしながら神に従わず、自分の欲のために生きて地上の生活を終える。

彼はキリストの裁きの座で恥じ入り、メシア王国に入ることなく、新天新地の到来まで外の暗闇に放り出される。

これは、十分にありえるだろう。

 

だがそれでも、第二の死からは救われている、と私は思う。