宗教2世。
キリスト者にとってこの言葉は、他人事ではない、と思う。
番組では、”偽キリスト教”と思われる宗教の、2世の方々が紹介されていた。
番組を視聴後、考えた点は3つあった。
考えたこと、ひとつ目。
偽キリスト教は、キリスト教を破壊するために、意図的に造られたもの、ということ。
そして、それは成功に向かって前進しているように思える。
偽キリスト教は、イエス・キリストの神性を認めず、イエス・キリストを、天使ミカエルと同一視して、イエスもまた被造物としている。
なので、彼らはキリスト教ではない。
だが、彼らは「クリスチャン」を自称する。
彼らの問題が社会に認知されるとき、キリスト教も同一視される。
番組の内容にあったように、親が信仰を子供に伝え導くとき、それが虐待とされるならば、それはキリスト教への迫害の糸口になる。
考えたこと、ふたつ目。
キリスト者である親が、子供がキリスト信仰を持つように育て、導くのは、ごくごく当然のこと。
もしそれを願わないのであれば、そのキリスト者の魂は、正常に機能していない。
そこで親が間違えるのは、キリスト教という宗教の枠に入れようとすることだろう。
それは否定できない。
神は、それを用いられ、福音宣教は広まった。
だが、本来、伝えるものは宗教ではない。
イエス・キリストという実在者、創造者、救済者を伝えるのであって、宗教を伝えるのではない。
もし、イエス・キリストを伝えるのに、キリスト教が道具になるのであれば、使えばいい。だが、道具を使わなければならない、というわけではない。
考えたこと、みっつ目。
「魂の救い」は失うことがありえるが、「霊の救い」は失われないこと。
子どもが幼い頃、いわゆる「教会」に通って、賛美歌を歌い、祈り、キリストを信じている、と親も周囲も認めていたが、成長していく中で、離れていくことがある。
もう自分は信じていない、と宣言することもありうるだろう。
だが、人が口にした言葉が、必ずしも真実であるとはかぎらない。
「人の心はよろずのものよりも偽る」とエレミヤ書にあり、また「人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。」とコリント前書にある。
人の言葉が、不確かなものであること、口にした後で後悔すること、後悔しつつも誤魔化し続けることは、誰しも自身の経験として知っているだろう。
創世記に記述されるアブラハムの失敗は、ひどいものだ。
エジプトでの失敗を、サラの受胎を約束された後、また繰り返している。
だが、神ご自身が、人の失敗を挽回された。
イエス・キリストは、ご自分の羊を諦めることはなさらない。
群れからはぐれた1匹の羊を見捨てたりはしない。
人が諦めて欲しいと願っても、自身の命を支払って得た所有物を、彼は必ず手に入れる。