日本には「奥ゆかしさ」という美徳があるけれども、それはともすると「御心のままに」という宗教的な装いの受動的思考や、謙遜を装った自己卑下につながる。
あのヨシュアとカレブのように、また「天の御国は激しく奪うものに獲得されている」とあるように、ヤハウェ・エロヒムの民は旧約においても新約においても、大胆に主の与えてくださる領域を獲得するもの。
もちろん、思うべき限度を越えてはいけないが(ローマ12:3)、キリスト者に与えられているのは「力と愛と健やかさの霊」(Ⅱテモテ1:7)であり、その霊の中にある自己主張、自己表現は、「王である祭司」としてあるべき姿。
「王」は状況に支配されるものではなく、状況を配するもの。そしてキリストは「王の王」として御支配なされる。
@詩103:19-21
主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ。そのすべての万軍よ、そのみこころを行うしもべたちよ、主をほめよ。