鳴鳩雑記

https://into-deep-flow.hateblo.jp/

山谷少佐のブログに思う

 

最近、救世軍の山谷少佐のブログを拝読しています。

 

僕が兄貴分と慕うおひとり、KFCのルークさんの、御友人。

某訴訟で、ご自身のスジを通された方。

ツイッターでお見かけし、フォローさせていただいています。

 

これまで無教会系の聖霊派や、伝道出版社系のブラザレン(彼らはブラザレンを自称しませんが)には、関りや関心がありましたが、救世軍はありませんでした。

 

キョウカイではなく「小隊」。

レイハイではなく「聖別会」。

ボクシではなく「少佐」。

これだけ独自性が色濃いと、強いよね。

 

そもそもが「救世」のための「軍隊」でしょ、気合の入り方が違うやね。

生ぬるい者は、「兵士」としてふさわしくないからね。

 

「先生」と呼ばれてはならない、と邦訳聖書には書いてあるけれど、「少佐」と呼ばれてはいけない、とは書いていない。

 

しかも、軍隊であるからして、たぶん縦社会でしょ?

キョウカイでやれば「カルト」の批判を受ける事でも、「軍」だからね。

 

この独自性は、よくもわるくも、強いです。

 

キリスト業界も「聖書信仰」とか謳うからマズいのです。

 

「聖書を土台としていますが、新興宗教ですっ!」って言えば、好き勝手できますやね。

 

当然ながら、奨めるつもりはないけれどもね。

 

救世軍くらい独自性を打ち出して活動するのは、覚悟があっていいかもしれない。

 

僕が表立って活動するとしたら、「宗教団体」ではなく「信仰結社」。

キリスト教」ではなく「キリスト道」。

スモールグループ名が「Into Deep Flow」なので、団体名は「深流会」。

肩書は「ボクシ」ではなく「世話人」。

スローガンは「十字架を高く掲げて人つくり」。

日本人として、日本の繁栄と安全を願い、天皇陛下や宮家の方々の祝福を祈ります。

そして、皇族の中から公に、イエス・キリストを告白する方の現出を祈ります。

白塗りの街宣車も造ろうかな?

もちろん、冗談半分です。

 

つまり半分は、本気です。

笑えます?

笑えない?

僕は「反社」ではありませんが、「反世」ですから。

 

 

で、山谷少佐の記事で興味深いことはコチラ。

 

以下転載。

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このことについては古代から近世にかけてクリスチャンたちの間で、いろんな意見が出た。おおまかに言っても、こんなに諸説ある。

1.神が人間になるのは絶対に不可能なので、人間のように見える幻として現れた。だから神が本当に人間になったわけではない(グノーシス

2.神はイエスという人間を選び、ヨルダン川の洗礼のときに神の霊がイエスに入ることでイエスは神になった。でも、十字架で死ぬ直前に神の霊はイエスから去った。なぜなら神は死ぬことができないから(養子論)

3.神は、イエスを神的な存在として創造した。イエスは神のようであるけれど神ではなく、すべての被造物の頂点に立つ神的な人間として生まれた(アリウス主義)

4.神はマリアの本質から血と肉を取ってイエスになった。イエスの中で、人間としての性質は、神としての性質によって、すべて置き換えられた。だからイエスは神であって本当の人間ではない(単性論)

5.神はマリアの本質から血と肉を取ってイエスになった。イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったままひとつに結び付いている。それらは混ざり合うことなく、分離することなく、永遠に結合している(カルケドン)

6.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。神としての性質と、人間としての性質は、その間を自由に融通することができる(ルター派

7.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。しかし、神としての性質が譲歩することで、人間としての性質が前面に出る(ケノーシスキリスト論)

7.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。しかし、神としての性質は完全に後背に隠れて、人間としての性質が全面に出る(クリプトキリスト論)

8.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。神としての性質は、人間としての性質の外部に無限に広がっている(エキストラ・カルヴィニスティクム)

9.神はマリアの本質から血と肉を取らないで、マリアの胎に無から新しい人間を創造し、それに神の霊が宿ることでイエスになった。だからイエスは人間ではあるけれど、ほかの人間とはつながりを持たない(再洗礼派)

神が人間になるって、人間の理解を超えた不思議な出来事だよね。

だから、それを理解しようとすると、どうしても考え方の違いが生じてしまう。これはまあ、しょうがないよなあ、と思う。だって、限界のある人間がすることだもの。

しかし、考え方が違えば議論になり、議論がヒートアップすれば論争となり、論争が決着しないと紛争になり、紛争を解決するために実力行使に発展してしまう。いや、発展と言うべきか、後退と言うべきか。。。

重要なポイントは、神が神としてのあり方に執着しなかったことであるはずなのに、いつのまにか自説に固執して論敵をやり込めるのに必死になってしまう。これは、キリスト教の歴史で繰り返し起きたことだ。

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転載、終了。

 

7番が2項目あるのは、気にしない。

 

僕は「霊・魂・体」の救いとか、「十字架の二面性」なんかに、こだわってきたけど、こういう視点は希薄でした。

 

いわゆる「原罪論」を是認していたときは、9番の立場。

なので、金髪青眼の姿もありえないわけではない、と考えていました。

 

現状では「原罪論」は是認していないので、5番以降であれば、どれでもいいんじゃないの?と思うところ。

 

というのは。

 

その考えを是認することで、あなたの生き方にどう変化があるの?

今よりキリストを愛するようになるの?

今より伝道に熱心になるの?

今より御言葉に熱心になるの?

今より他者に熱心になるの?

どうなの?

 

と思ってしまうから。

 

正しい考え、正しい教え、それは大切。

 

でも、キリストにある「いのち」が流れることがないならば、その正しさはむなしくないかな。

「いのち」が流れ出る「健やかさ」が欲しいよね。

 

山谷さんが書いている通り、

「いつのまにか自説に固執して論敵をやり込めるのに必死になってしまう。」

これがよろしくないやね。

 

細かいことはどうでもよろしい。

内側にあるものを、体現しよう。

 

改めて、そう思わせられました。

 

山谷少佐と、その小隊に、キリストの御支配が豊かにありますように。

 

終わりに、再度転載させていただこう。

 

以下、転載。

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神が人となったのは、わたしたちに生き方の模範を示すためだ。

それは。。。

● 自分を無にすること
● 僕(しもべ)となって他者の足を洗うこと
● へりくだること=他者が自分より優れていると認めること
● 自分の死を受け入れること=自分の限界を認め、負けを受け容れること
● 自分の小さな十字架を取ってイエスのあとに従うこと

そういう生き方だ。