鳴鳩雑記

https://into-deep-flow.hateblo.jp/

先生と呼ばれてはいけない、ってさ。

CHRISTIAN TODAYというサイトで、「先生と呼ばれてはいけない」についての記事が、あがっていました。

 

この趣旨の記事って、定期的にあちらこちらで見かけるように思います。

 

僕にとっては、このネタもういいよ、というのが正直なところ。

20代のはじめ、このネタについて話をした際に、「僕は先生とよばれなくていい」というボクシさんがいまして。

素直に「~さん」と呼んでいたら数日後、電話でお咎めのご指導をいただきました。

権威が、秩序が、云々と。

 

あれから四半世紀です。

リバイバル~、総福音化~、などと言いながら実現しないのはなぜでしょうね。

もしかすると妨げているものは、「先生」と呼ばれることに原因があるかもしれませんよ。

 

理屈はどうでもね、「先生」という呼称は、もう廃止された方がよろしいでしょう。

 

未信者さんや、初信者さんが聖書を開き、たまたま該当の聖書箇所を読んで、ボクシさんが「先生」と呼ばれる現実を見聞きしたときに、違和感を覚えるでしょう。

それって、よくないですよね。

 

原語は「ラビ」という専門用語で云々、なんて一般的には知られていませんよね。

使徒パウロは「その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。」とⅠコリ8:11に書き記しています。

パウロの思考、その意図を汲めば、「先生」と呼ばれない方が良いのではないでしょうか?

 

日本の文化では、相手に敬意をもって「先生」と呼ぶことは、日常です。

呼ぶことは、間違ったことではありません。

ただ、聖書に書いてあるのは「呼んではいけない」ではなく、「呼ばれてはいけない」ということです。

主イエスが仰せられているのは、呼ばれる側の姿勢、です。

 

主イエスの言葉と、多くの日本語聖書が「ラビ」を「先生」と訳していることを考えれば、日本文化を盾にして正当化するのは、僕には理解できません。

  

引退されたボクシさんが、老人ホームに入所して「先生と呼べ」と要求して、問題児ならぬ「問題爺」になっている話は聞いたことがあります。

ボクシさんは、「先生」と呼ばれないと、なにか不安になるのでしょうか?

 

嬉しいことに、「先生」と呼ばれない、呼ばせない、こだわらない、そういった姿勢のボクシさん、実際におられます。

彼らの働きで、「先生」と呼ばれないことによって、何か不都合が起きているということは、聞いたことがありません。

主イエスによって立てられた人であるならば、肩書、呼称、衣服、そういったものによる演出は、無用です。

 

実際、僕が出会い、「~さん」と呼んで、自然と対応してくださるボクシさんのところって、業界の衰退とは関わりなく、救いが起こり、洗礼を受ける人がいて、地道に福音宣教は前進しています。

 

論より証拠、という言葉があるように、理屈ではなく結果でしょ?

主イエスも、実によって判断しなさい、と言われていましたよね。

 

ピリピ2:6~8には、キリストご自身の姿勢が書かれています。

ボクシさんは「先生」と呼ばれることを捨てられないとはお考えにならず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、信徒と同じように「~さん」と呼ばれるようになられてはいかがでしょうか?

 

それが、キリストの「弟子」の姿勢として望ましいように、僕は思います。