ガラテヤ2:20の言葉が、キリスト者の起点であることが明確に語られていない、ということが問題でしょう。
@ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の中に生きておられるのです。そして私は今、肉体の中で生きているその命を、私を愛し、私のためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。
この御言葉を、いつかたどり着く信仰の高嶺、と見る。
もしくは、観念的に受け止め、実際的ではないとする。
そのような、人間の視点、読み手の視点で留まっていると、キリスト者に約束されていることを受け取り損ねます。
神の視点、書き手の視点では、それは事実であり、そこからキリスト者の実際的生活は始まります。
イエス・キリストの十字架の事が話される際、多くの場合に「身代わりの死」が語られる。
それは真理ですが、それだけでは、福音50%カット、と言わざるをえません。
福音書のイエス・キリストだけを見て、黙示録/啓示録のイエス・キリストを見ないことと同様です。
イエス・キリストの十字架には「身代わりの死」とともに、「共なる死」があります。
2000年前のイエスの十字架死の内に、キリスト者自身が存在していた、ともに死に、葬られ、復活した、というローマ6:6からの真理が明確に語られなければなりません。
そして、キリストの内にあって共に復活した、という理解があってこそ、エペソ2:6の「天の御座」という特権が、自分のものとして受け止められるでしょう。
そこから、天に生きる「霊」と、地上に生きる「体」の、ふたつの世界に生きるキリスト者の生活が始まります。
聖書の提示するところは、理性的ではありません。
いわば、トンデモ話、です。
それを事実とするなんて、理性で判断する分には「キ〇ガイ」です。
そうなりたくない、そう見られたくない、だから聖書の提示するところを理性の範囲で抑えようとするのが、僕の言う「キリスト教」。
人に受け入れられる範囲で抑えたいから、「身代わりの死」だけで留まるのかもしれません。
もちろん、それでも「霊の救い」は受け取れますので、イエス・キリストの十字架の福音は素晴らしい。
でも「身代わりの死」だけだと、そのままの自分で生きることになるんですよね。
アダムの子孫としての、古い人の、自分で。
ああ、だから「そのままのあなたで愛されている」系の話が喜ばれるのか…。
聖書が提示し、キリストご自身が期待しているのは、聖書の言葉に生きることであり、キリスト者が「魂の救い」を得ていくことです。
そのためにはやはり「共なる死」が、キリスト者の起点として、明確にならなければいけません。
「身代わりの死」「共なる死」「霊の救い」「魂の救い」、いったいなんぞや、と思われる方は、下記ご参考までにどうぞ。