鳴鳩雑記

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続・「宗教2世」に思う

 

コメントを感謝します。

 

僕が「キリスト教」と呼ぶモノは、AD325年に二ケア会議あたりから発生した、と思います。

聖職者が定められました。聖職者と信徒が、区別されました。

これは、聖書にはない区別です。

初代教会の時代、キリスト信仰を職業とする人はいませんでした。

福音宣教者たちが、キリスト者から経済的また物質的援助を受け取るのは、聖書の定めるところですが、それは職業ではありません。

教父の時代には、受け取っていいのはその日の夜のパンまで、金銭を受け取るのはニセの働き人、とされていた記録もあるようです。

 

ローマ帝国文化の建築物が「公同の教会」とされ、ローマ帝国の宮廷儀式に似せた集会が行われるようになり、キリスト者の個人宅での集会が禁止され、ヘブライ文化が排除され、異教要素が取り入れられました。

それまでは、「教会」は、キリスト者、その家族、を意味する言葉でした。

ですが「教会」という言葉が、特定の宗教用の建物を意味し、聖職者や教職者という宗教家がいて、建物があって、定まったプログラムを行う、というものに替えられました。これらの概念は、現代のプロテスタント教会にも、継承されています。

 

日本では、仏寺のコピーのように、住職の代わりにボクシ、本堂の代わりに会堂、檀家制度の代わりに教会籍、という様相を持っています。

本籍や住民票を移動することは、日本国民にはすべからく権利として与えられています。ですが、キリスト教の教会籍は、本人の自由ではなく、ボクシ同士のやりとりで行われます。これらの様式は、聖書にはありません。

 こういった概念、価値観、様式を、僕は「キリスト教」と認識します。

 

現代のプロテスタント教会の在り方を全否定するつもりはありません。

我々は異邦人であり、純粋種ではなく野生種のオリーブですので、花も実も野生種のモノです。

ですので、異教の影響を受けた建物を持ち、定まったプログラムがあり、説教者が立てられて会衆に語る、それでもイエス・キリストが語られ、福音宣教が拡大また前進するのであれば、それはそれでよいと思います。

教職者という職業も、福音宣教に従事できるというのは良いことですので、否定はしません。

 

問題点は、プロテスタント教会の「地域教会」で、その建物、組織、プログラム、教職者、それらを維持、存続、拡大することが、本来の目的にすり替わっている、そんな様相を見せていることです。

 

信徒は「地域教会」の実務、いわゆる奉仕に参加することが期待され、それに習熟することが実績となり、「地域教会」内での地位を得ます。

教職者はそれが正しいことのように、指導します。

所属年数が長く、実務には優れていることは良いことかもしれません。

ですがそれは、キリスト者として成長しているかどうかとは、実のところ、全く関係ありません。

 

「地域教会」の本来の目的は、「キリストの体」として、「キリストの充満」として、地上に存在することだと考えます。

その具体的なひとつの活動は、「信仰は聞くことより始まり、聞くことは神の言葉による」と書いてあるように、神の言葉である聖書が読まれ、解き明かされ、事実と認められ、理解され、その場にいる人間の世界観、歴史観、人生観、価値観が、再形成されること、です。

それは、ある人にとっては、イエス・キリストを救い主として受け入れて「霊の救い」を得るときになり、ある人にとってはキリスト者としての成長である「魂の救い」を得るときなります。

これは、建物、組織、プログラム、教職者、それらの維持、存続、拡大とは、関りがありません。

その「地域教会」に加わる人が、世界観、歴史観、人生観、価値観を、聖書をもとに再形成されないのであれば、残念ながらその「地域教会」は、神にとって、キリスト者にとって、益とはなりません。

 

特に気をつけなければいけないことは、この日本のキリスト教会は、同調圧力に弱い、ということです。大東亜戦争の際、日本のキリスト教会は、国家の指導の下、ひとつの団体とされました。当時のキリスト教会は、それを喜び、ゼロ戦と呼ばれる戦闘機を奉納し、教会堂に神道の神棚を設け、柏手を打ち、皇居や富士山に礼をしてから、日曜の礼拝式を取り行いました。この歴史が繰り返される危険性はない、と言い切れるでしょうか。僕はそう思えません。

 

神の前に単独で立つ信仰者であること、それはこれからの時代、黙示録のラオデキヤ教会の時代に生きるキリスト者に、不可欠な要素と思います。