鳴鳩雑記

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主にある婦人の奉仕

ある婦人の奉仕をご紹介します。

この方は、聖書と、キリストにある先達の書き記した図書を読み、黙想されている方。

今は、若い母親たちと、小さな交わりをされているとのこと。

 

業界的には、僕と同様に、信徒。

講壇から説教を語る、そんなこととは、無縁。

でもね、聖書の提示する「羊の世話をする」という働きに、講壇から語るよりも近いように思います。

 

若干の編集を入れていますが、いただいたメールをほぼそのままに、どうぞ。

 

 

@エペソ人への手紙 3:17-19

 「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」

 

黙想した聖書箇所は上記の部分ですが、その前の予備知識として、この場面の状況とは、パウロが獄に捕らえられていること、それは、世の初めから今まで隠されていた奥義の実現がどのようなものであるかを明らかにして、福音を異邦人に宣べ伝える為であったことを抑えておく必要があります。

その為にパウロは苦難を受けているけれど、落胆しないで欲しい、「私が受けている苦難はあなたがたの栄光なのです」と書いてあります。 そして、計り知れない神の愛を知って欲しいと懇願しているわけです。

 

さて、先日の礼拝メッセージでは、霊の目が盲目になっていて、イエス様を認識できなかったエマオに向かって歩いていた弟子たちのことが紹介されていました。そこで、問いかけがありましたね。

 

「あなたたちはイエス様が見えていますか?イエス様の声が聞こえていますか?イエス様を感じていますか?」

 

その言葉が耳から離れませんでした。

エマオに向かって歩く2人の弟子のようにイエス様を見ることができない、聞くことができない、感じることができないのは何故だろうか。

どうやったらイエス様の言葉を聞いて、イエス様を見ることができて、感じることができるのだろうか。そう自問自答を始めました。

 

正直な話、私は、日々、イエス様を見て、声を聞いて、感じることができます。でも、友人の中には、それが出来ない、、、と悲しんでいる者もいます。 では、どのようにしたら、主を見て、聞いて、感じることができるのでしょうか。 そのことを黙想する内に、次々と御言葉をもって主は教えてくださいました。

 

 それは、私自身の体験とも重なり、合致していました。

 

先ずは、「へりくだりなさい」ということです。 ヘリくだりとは、自分の中に良いものは何もない、あるとしたら、人によく思われる為だけの偽善でしかない、良いことをする力もない、無力を認めて主に依り頼むのが、へりくだりで、それが、先ず、イエス様を見ることができるようになる為の第一歩なんじゃないだろうか、そう思いました。

 

次に、主ご自身を切に呼び求めること、これに尽きるのではないかと思っています。 「イエス様ご自身を呼び求めると救われる」と書いてありますが、それは、贖いの為だけじゃなく、救われた後、召されるまでずっと継続して、日々毎々のことなのだと思います。 主を切に求めるなら、確かに主は姿を現し、声を聞かせてくださる。どのように辛くて苦しい状況の中に置かれていても、いや、そのような苦しい状況だからこそ、主は慰めの霊を降り注いでくださいます。

 

また、平安と喜び、御霊の満たしに与ることができる。 それは、状況が良くても悪くても変わりません。主の顕現は御霊です。主を呼び求める時に、主は御霊をもってさやかに姿を現してくださり、平安と喜びと力をもって、私を覆ってくださいます。 イエス様を感じること、それは御霊に依るものであって、肉の目や耳では決して見ることも聞くこともできないのです。

 

また、「真理はあなた方を自由にする」という御言葉がありますが、真理とは、イエス様ご自身でもあるけれど、神の御心であり、神の目的であり、神の意図であると思います。 神の御心、神が我々を救った究極の御心(神の意図)とは、救われた私たちが、御国にて永遠に神と共に過ごす為なのです。

 

そのことが分かるなら、この世でどんな苦しみがあったとしても、超越して平安でいることができるのではないでしょうか。あらゆる捕われや苦しみから解放されるのではないでしょうか。

そこに、神の愛の究極の愛があるのだと思います。

それはやがて、肉の体から栄光の体に変えられる日に完全に成就しますが、その約束を見つめているならば、苦難の中にあっても喜びがあります。

 

上記の御言葉を黙想したことによって、神の御心を確認し、また、整理することができたのが幸いでした。 神の愛の深さは、到底、人知では知り尽くすことができないほどに深いものですけれど、日々、主ご自身を切に求めつつ、主と密に親しく交わり、御声を聞き、主のご支配の内に歩みたいですね。

 

主の御霊が少しでも、この世にあって生きる間にも、愛する兄弟姉妹の上に顕してくださり、主の御愛を味わわせてくださるようにと祈っています。

 

 

参照聖句

@ルカ24:13 〜16

「この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」

@(ヤコブ4:10

 「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」

ヨハネ 6:63

「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」

@ローマ10:13

「なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。」

@(ヨハネ 8:32

「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」