アロンの過ち。ヤロブアムの罪。
それはエジプトの偶像である「金の仔牛」を用いて「イスラエルの神」を礼拝したこと。決して、他の神を礼拝したわけではない。
エクソダスしたイスラエル人にとって、エジプトの地で見慣れた、形のある神概念を使って、「イスラエルの神」を意識することは、容易なことであっただろう。
しかしながら、ヤハウェはそれをよしとされない。
異教のモノで、ヤハウェに仕えることは、ヤハウェの「聖」にふさわしくない。
「聖」は「分離」であり「特別」であり、「俗」また「普通」ではないということ。
そしてこの「金の仔牛」、異教の祭を用いてキリスト降誕を祝う「クリスマス」に通じる、と私は考えている。
クリスマスの由来と起源については、コチラの記事をご紹介。
>クリスマスをイエス・キリストの降誕を記念する日と肝に銘じて祝うのなら問題ないのかもしれません。
>しかし、私の場合は、何となく知らず知らずのうちに訳の分からない悪魔のような神を賛美する行事に参加させられているような気がして、素直に祝えなくなってから早6年が経ちました。毎年クリスマスの時期が来るたびに、複雑な気持ちになります。
>貴方は、クリスマスの起源を知っても、今までと同じように祝えますか?
ブログ主・HANNAさんの感性に、まったく同意いたします。
日本の数か所に地域教会を建て上げた、カールトン・ケニー宣教師は、1990年12月25日に「クリスマスについての考察」という冊子を発刊され、その異教性を指摘している。
そして、ケニーさん(彼はセンセイという呼称を拒む、素敵な方)は、それをやめるべきだ、と主張されている。
またコチラは、とても刺激的な内容が書かれている。
私はこれと同じ話を親交のある方から聞いたことがあり、ケニーさんはそれを匂わす内容を書いている。
キリスト教の方々の、クリスマスは「伝道の機会」という考えは、理解できる。
実際、ケニーさんは、それを勧めている。祝うのではなく、楽しむのではなく、世に受けるようにではなく、と。
だが、キリスト教人口が減っている現実は、クリスマスの伝道に特別効果があるわけではない、ということの実証ではないだろうか。
もちろん、どのような状況でも福音が語られるのであれば、聖霊が働かれ、人は救いに導かれる。クリスマスの伝道で救われた方もいるだろうし、それは素晴らしいこと。
ただ、クリスマスだから救いに導かれた、というわけではないだろう。
伝道を考えるのであれば、初代教会の使徒たちは、キリストの死と復活、昇天、そして再臨を、語ったことを理解しておきたい。
降誕は語られていない。もし降誕が重要であれば、その日時をルカ伝で明記しているに違いない。
純粋に、キリスト降誕を祝いたいのであれば、仮庵祭の時期にやるのがよいだろう。
異教起源ではなく、聖書からの推察でも適当性がある。異教由来の祭りを用いるよりは、はるかに健全だろう。
というわけで。
クリスマス、やめましょう。
追記 2022・12・13